高齢者放送大学の感想文「私の心のこだま」
 
私自身も感想文を書くことによって、内容を意識して聞くことができればと実践することにしました。なお、毎回の放送は放送日から1ヶ月間は「兵庫県生きがい創造協会のホームページ」の『放送ライブラリー』で聞くことができます。
                                                 
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平成26年度の感想文「私の心のこだま」

1月24日放送 「阪神・淡路大震災から20年」
           ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長 五百旗頭 真

 震災復興について、当時の貝原知事が創造的復興という言葉をよく使われていましたが、ルーツは関東大震災にあったということは知りませんでした。個人一人ひとりにとっては今までどおりの生活ができることを望んでいると思いますし、それが願いだろうと思います。しかし、再び災害が起これば同じくり返しになります。東北で津波による多くの犠牲が出たのも元通りの生活をしていたからでしょう。

 創造的復興に立ちはだかったのが後藤田ドクトリンだということも初めて聞きました。お役所仕事は前例を曲げなかったり、出費を抑えることに重きを置きます。私が初めて県庁で勤務したとき、上司から県民の訴えはどれも正しいが、それをいかにコントロールするかがおまえ等の仕事だと言われたことがあります。後藤田ドクトリンも官僚が考え出した方針だと思います。

 東日本大震災では国民からの一定額の税金を財源として復興を進めようとしていますが、県知事や市町村長の話を聞いていると、まだまだ思い通りには使えないような話を耳にします。また、募金もどこかでストックされているようで、なかなか必要なところまでまわっていないようにも聞きます。このような基金が被災者やそれを助けるNPOやボランティアに使われても、直接復興に携わっていない人々の人件費や庶務費で消えていくことのないようにしたいものです。


1月17日放送 「阪神・淡路大震災から20年」
                パーソナリティ 谷 五郎

 ボランティアを1人ではじめるのは本当に勇気がいります。誰かに誘われるか、仲間と共にやろうということでなければ取り組むことはできません。その代わり、いったん始めるとまたやりたいと思うのも同感です。やり遂げた後のさわやかな気持ち、お役に立てたという充実感があるからだろうと思います。

 私はいきいき仕事塾の講座から生まれたグループで、神戸の運動公園に菜の花を植え付けるボランティアが最初で、同じグループで兵庫国体の開会式と閉会式で弁当配布のボランティア、そして精神障害者施設でのボランティアなど経験しました。しかし、その仲間たちの居住地の範囲が広く、みんなで一緒にボランティアすることが難しくなったので、それぞれの居住地でボランティアをするようになりました。

 現在は小学生の下校の見守りと、女性カラオケグループの機械操作だけを行っていますが、老人クラブの役員もある意味で地域ボランティアかなと思っています。このような活動をさせてもらえることは自分の生きがいに結びつき、生活のリズムや変化をもたらしています。地域社会とのつながり、地域社会に必要とされていることに感謝しながらの活動です。


1月3日放送 「知事年頭の挨拶・学生参加番組
T「安全安心と元気の創造」 兵庫県知事 井戸敏三
 自分の今年の目標は何かと問われると、はたと困ってしまいました。妻が入院して家事全般に追われていて、それどころではなかったからです。しかし、逆に考えて、日常生活全般において自立することと、人の役に立つことを目標に充実した年にすればいいと考えることにしました。そのためにも自分が元気寿命を維持することこそが大切で、あらゆる機会を通して体力維持に努めたいと思います。

 一方で阪神淡路大震災から20年、「伝える、備える、活かす」についての取り組みはどうかということについても考えてみました。どれ一つとっても私は実践していません。むしろ今年の20年で震災行事には区切りをつけようとしています。そのような自分にそれでよいのかもう一度考え直してみたいと思います。

U学生参加番組「あれから20年…阪神・淡路大震災@」
  当日激しいゆれと家全体が軋む音に目が覚め、ただごとではない、家が倒壊するかもしれないと思い、私も咄嗟に隣で寝ている妻の上に四つ這いになって守ろうとしました。なぜそのような行動に出たのかは今も不思議に思います。家財道具が散乱し、壁は至る所で剥がれていましたが、幸い4人家族全員無事でした。後でわかったのですが、母が寝ていた2階の屋根瓦がずれ、一部に空が見えていました。それを見て、母が大あわてで2階から駆け下りてきて助けを求めたことが理解できました。その母もショックが大きかったようで、直後に食道ガンを発症し、震災直後のがんセンターでは治療を十分受けることができず、転院させられて死を待つことになってしまいました。家に帰ることも出来ず、半年後に病院で永眠しました。今も尽くすことができなかった悔しさが残っています。

 小堀様のように防災士の資格を取ってリーダーになるような活動はできませんが、せめて老人クラブ内で備えについて話題にしていきたいと思います。


12月13日放送 「蝙蝠、赤信号をわたる」
                ギャラリー島田代表 島田 誠

 阪神淡路大震災直後、芸術家たちは神戸を訪れることに躊躇していました。一人ふたりと神戸を訪れ、迷いを持ちながらコンサートを仮設近くの広場で開いたとき、今日を生きることだけの生活していた被災者たちは涙を流し、未来への展望を感じ取っていました。今日の講師が語られたように、衣食住だけでは人間として生きていけないことがわかったのです。

 東日本大震災の後直ぐに芸能人がいち早く被災地を訪れ、仮設訪問やミニコンサートを開催するテレビ番組が数多く報道されました。反応は阪神淡路大震災の被災者と同じでした。自分たちだけが苦しみ、我慢しているという行き場のない意識から解放されるのだと思います。

 島田氏はさらに芸術家の失意を奮い立たせるような活動をされています。そして市民に呼びかけ、どんどんその支援の輪を広げ、大きく発展されていることは素晴らしいと思います。神戸で得たノウハウを東北にも活かされていることも素晴らしいことだと思います。

 阪神淡路大震災から20年、そろそろ震災記念のイベントは終了してもいいのではと思います。それは震災に対する備えが各自の心の中でそれなりに定着しているからです。ルミナリエがそうであるように、本来の意義や目的からはずれ、単なる観光や客寄せになってしまい、マンネリ化していくように思います。私も来年1月17日のウォークで区切りをつけたいと思っています。東北はまだまだこれから復興支援が必要だと思います。神戸でのエネルギーを東北に移していってよいと思います。


12月6日放送 「神戸新聞の100日」
            元・神戸新聞社論説委員長 森本章夫

 わが家は50年以上神戸新聞を購読しています。地域のニュースが詳しく掲載されるので、他の新聞の勧誘があっても断り続けています。その神戸新聞が震災からしばらく4ページ程の薄っぺらな新聞だったことを記憶しています。それでも隅から隅まで読んだものです。その後テレビで当時の神戸新聞社の苦労がドキュメントとして取り上げられているのを見ました。特に初日の夕刊を印刷所まで届けるまでの苦労は本当に涙が出ました。そして一日も休まずに発行されたことに感動すら覚えました。東日本大震災での東北地方は広い範囲でもっと苦労が大きかっただろうと思います。

 私も家が軋む音を聞き、倒壊を覚悟し、横で寝ていた妻の上に覆い被さって揺れのおさまるのを待ちました。後で考えれば車のラジオで情報を得られたのですが、そのときは停電で真っ暗、情報がないまま手のつけようがありませんでした。そのような中、西宮の同僚から家こそ倒壊を免れたが、足の踏み場もない状況で出勤できないという電話が入りました。やっと携帯ラジオに電池を挿入し、情報が入ると、神戸を中心に大変な被害が出ている様子だということがわかりました。

 職場は稲美町にあり、事務所から今日はどうするかと尋ねられました。休業にするというと「休みにするのですか?」といぶかしげな返事が返ってきました。それもそのはず、稲美町は停電にもなっていなくて、業務にそれほど支障がなかったからのようです。ただ、交通機関が全面的に泊まっていたので、出勤ができない職員がたくさんいました。私も朝食もせずに取り敢えず車で出勤しましたが、いつもは25分のところを3時間以上かかり職場に着いたのは10時過ぎになっていました。そしてテレビの画面が市街地の火災の様子を映し出していましたが、その画面が神戸市の広い範囲で火災が起こっておる現状だということを理解するのに時間がかかりました。

 職場には姫路方面に居住している職員がマイカーで出勤してきていましたが、明石東部から神戸市に居住している職員の安否すら確認できない状況でした。稲美町にある職場でも壁に掛けられた時計が落ちて粉々になり、床や壁に亀裂が入り、重い大きな金庫でさえ部屋の中央の方へ少し移動していました。休業にして正解でした。

 あれから20年、家の壁などあちこちに被害の傷跡が見られますが、すきま風を辛抱しながらも平穏な毎日を送ることができるようになりました。そして被害者に対して直接貢献することはできませんが、ボランティアの心を学び、地域に貢献することを大切に日々過ごしています。震災がなければ、今このような心を大切にする人生を送っているでしょうか。


11月29日放送 「人間にとって成熟とは何か」
                                 
作家 曾野綾子
 人前では善人ぶっている私ですが、一人のときには手抜きをしたり、人前は決して見せない人格の持ち主であったりします。理性と本能を持ち合わせているからだと思っていました。そしてそのお陰でストレスをためることはほとんどありません。今日のお話を聴いていてそれで良かったのだと思いました。

 それでも人前ではとことん善人であり、誠意を持って尽くそうとします。だから、「仏の田中」といわれていたこともあります。今も他人が避けて通ろうとすることも引き受けることが多く、お人好しといわれます。しかし、人に尽くすことが生きがいの部分もあります。ただし、組織のリーダーにはならず、補佐役として頑張ろうとしています。私がリーダーになると融通が利かなくなり、堅苦しくて組織の活性化を失ってしまいます。特に男性からは反発を買ってしまいます。その点では成熟したおとなにはほど遠いのだと思います。

 いずれにしても、今日のお話を聴いて、自分の人間性は変わらないと思いますが、人に迷惑をかけない範囲で、これまでのような裏表のある人間であっていいのだと思いました。


11月22日放送 「ウィスキーは日本の酒である」
             サントリー 名誉チーフブレンダー 輿水精一

 今年8月、サントリー蒸留酒製造所を見学しました。たまたま大山崎をふたりで訪れたとき、近くにあったので見学できるか受付で尋ねると、1時間待ちで出来ると言ってくださいました。工場の案内人に引率されてまず入ったところで、朝の連続ドラマ「まっさん」に出てくる大きな装置を見ました。その後貯蔵庫も見ましたが、それぞれの樽に製造された年号が書かれていました。中には製造を開始したときの樽もありました。今日の話で今我々が飲んでいるウィスキーは過去の人々が丹誠込めて醸造したウィスキーだということもよくわかりました。

 またブレンダーが常に体調を整えて仕事に臨んでいる様子をテレビで見ました。午後の仕事のために昼食すらメニューをセーブしなければならないことも話していました。そのような中で5人一組でその日出荷されるウィスキーについて日本人の好みに合うようにブレンドされているか確かめているというのですから、大変な仕事だということも知りました。

 工場見学では最後に最近出荷されたウィスキーの試飲がありました。私にはウィスキーの味はまだまだわかりませんが、好きな人はいろいろな銘柄を試飲していました。家には30年以上前の「山崎」などがあります。一時、お湯割りにして飲んでいた頃もありましたが、現在は全く手つかずです。そういえば昭和47年に海外へ出張したとき、最後の訪問国イギリスで上司へ「ジョニ黒」を買って帰り、喜ばれたことがあります。売価10000円くらいだったのを免税で7000円程で買ったように思います。一度古いウィスキーを取り出して味わってみようかなと思いました。


11月15日放送 「赤とんぼの郷 たつの」
                     歌手 多田周子

 ドイツへ行って日本の歌の良さを再確認し、それ以来日本の歌ひとすじに歌っておられると聞き、本当にそうだと思いました。最近高齢者の間で日本の童謡や歌曲を歌う仲間が増えていると聞きます。今の高齢者にとってそれらの歌は共通であり、いつでもどこでも直ぐに一緒に歌えます。そのような情感豊かな曲ですが、最近の小中学校の教科書からこれらの歌がどんどん消えていっていると聞きます。今の子ども達が高齢になったとき、世代を超えてみんなで楽しめる歌があるのだろうか、昔を懐かしんで歌えるのだろうかと少々気になります。

 卒業式にしても,今は学校によっていろいろな歌が歌われています。同窓会では良いと思いますが、学校が違う仲間では子供の頃、学生時代を一緒に懐かしく歌うことはできないでしょう。外国人が自分の国の歌を大切に歌っているように、担当の先生の興味だけでなく、学校においてやはり日本の歌を大切にしてほしいと思います。今回の多田さんのお話を聴いて日本人の心を歌うことのことのうれしさ楽しさを痛感しました。


 
11月8日放送 「言葉は魔物・宝物」
            フリーアナウンサー 羽川英樹

 話し下手の私にとってコミュニケーションのしかたについて学ぶところがたくさんあったように思います。必要なことだけをつたえて、伝わったと思いこんでいるのはまさに私の話し方だと思います。相手からの質問の形で相手に確認させていく話し方を是非実行したいと思います。

 もう一つは項目数の予告です。老人クラブの例会で司会をすることが多いのですが、伝えなければならないことを次々に話すので、どれだけのことを言おうとしているのか相手にはわからなかったので、抜けることが多くあったと思います。このことも是非実践したいと思いました。

 相手が自慢話をはじめると、こちらもついつい過去の自慢話をしてしまいます。このことについては相手を認めることに重点を置き、自分の自慢話は慎まなければと思いました。質問でほめるなど私には難しいと思います。まして叱るなどとんでもありません。認めることにとどめ、最低限の信頼を得たいと思いました。


11月1日放送 「君が生まれたあの日」
                 歌手 加藤登喜子

 私の妻も満州ハルピン生まれですが、義妹は同じハルピンで同じ年に生まれています。引き上げてくる途上は本当に大変だったと母親からよく聞きました。義妹は栄養を十分に摂ることができず、身体の発達が遅れたと聞いています。それでも父親が一緒だったので、助かった面が多かったと思います。

 自分が生まれたときのことはよくわかりませんが、神戸市会議員をしていた祖父が東京へ出張しているときに生まれたそうで、そのときに靖国神社が春の臨時大祭をしていたことから、誕生の連絡を受けた祖父が私の名前を付けてくれたということを聞いています。
 私の長女が誕生したときも、私は東京に出張しているときで、帰宅してから生まれたことを知りました。だから誕生の瞬間の喜びはありませんでしたが、喜びの感情は徐々に湧いてきました。名前は1字でいい名前をとふたりで時間をかけて考えました。早速育児日記を買ってきて、ふたりで成長の様子を事細かに書き残しています。

 長男が生まれたときは祭日で家にいました。病院から男の子が無事生まれたと連絡があったとき、思わず「万歳!」と叫びました。早速病院に駆けつけると、紫色の顔をした小さな赤ん坊が眠っていました。聞くとへその緒が首に巻き付いていてそのせいで直ぐに泣かなかったそうです。それでも無事に育ち良かったと思いました。このときも直ぐに育児日記を買ってきて、ふたりでせっせと書きましたが、二人目となると成長の過程での新発見が半減したのか、成長するにつれて書く回数が減ってしまいました。長男が生まれる3週間前に父が亡くなっており、みんなが「おじいちゃんの生まれ変わりだ」といっていました。

 これらの育児日記は子ども達がそれぞれ結婚するときにプレゼントするつもりでいましたが、果たしてそのときに子ども達の手に渡ったかどうか記憶にありません。もし渡していたら、今日のお話「君が生まれたあの日」の通りになっているのですが……


10月25日放送 「理想と現実主義者 黒田官兵衛の夢」
                          作家 柳谷郁子

 人が生きて、その生涯を誠実に全うすることこそが最良の生き方と考えていた官兵衛の信念は、戦国時代において特筆すべきであると思います。現代においても自分の考えと違う人を認めようとせず、自分の生き方の邪魔だてをする人は抹殺しなければならないと考えている人が多く、そのために争いや戦争が絶えません。しかし、政治家や戦争に巻き込まれている人々は、どうしても信念よりも集団が向かう方向から抜け出せず、自分の信念を曲げなければならないように思います。親孝行をしたくても叶わず、特攻隊で命をなくした人々がもし生きていれば、もっとモラルの高い社会になっていたのではないかと思いながら、知覧で彼らの最後の手紙を読んだものです。

 官兵衛が家庭で学んだ生き方の原点として、名刀で名高い長船が近い岡山県の福岡を訪ねてみる必要があるように思います。先祖が滋賀県木之本から当時流通都市として栄えた吉井川河口の福岡へ移住したこと、そこで得た知識や技能を持って姫路に移り住んだこと、それを活かしながら黒田家を発展させた祖父や父親から学んだことは大きかったと思います。

 今回のお話の中で、天下を取るチャンスが何度もあったというお話がありましたが、彼がそれをしなかったのは、相手が生きてその生涯を全うできるように、誠実に力になろうとしたからだと思います。ドラマの上だから真実はわかりませんが、石田三成に貶められるような仕打ちを何度も受けますが、それでも石田三成をなき者にしたり、秀吉に密告することはありませんでした。光成なりに人生を全うさせようとしたのだと思います。今の安倍政権に対して、身近に官兵衛のような人がいればきっと戦争に向かってすすむような政策はしないだろうと思うのは私だけでしょうか。


10月18日放送 「認知症の予防と介護」
                東葛病院院長 下 正宗

 認知症については私はかなり進行していると自分で感じています。若いときから突然記憶の糸が切れた状態になり、50歳ごろには目の前にいる人の名前が思い出せなくて、その人の職名で呼んだりしました。また提出する文章を書いているとき突然漢字が思い出せなくて、他の言い回しで書き表したりする事がよくありました。

 最近ますますひどくなり、冷蔵庫からものを取り出そうとドアを開いたけれど、何を取り出しに来たのか一瞬忘れてしまうなど、目的を見失うことがしょっちゅうあります。このような状態ですから、人と約束するときには、必ず予定表(カレンダーや手帳)で確認しなければなりません。それでも予定表に記入を忘れていて、ダブルブッキングになることがあります。そのようなときもこれまでは何とか切り抜けてきましたが、これからはますます心配です。ど忘れは老化現象としてしかたがありませんが、今やっているカラオケやグラウンドゴルフの点数計算など、脳を活性化することはできるかぎり続けていきたいと思います。

 介護の面では、自分の今の状態を考えれば、認知症の人に対して責めるのではなく、寄り添うことを大切にしなければと思います。このことは精神的にもとても大変だろうと思います。しかしこれまで受けた恩に対する感謝の気持ちを基本にその人に笑顔で接すれば、きっと介護に結びつくだろうと思っています。そして、自分の認知症で迷惑をかけたときには素直に謝る習慣を身につけておきたいと思います。


10月11日放送 「歌う笑うで頑張れる」
              シンガーソングライター 北 京二

 認知症がすすんでいると自覚している私にとって、またまたその裏付けとなるミスを犯しました。曜日を間違え、日曜日の6時30分に放送を聴いたのです。ラジオから聞こえる声が全く違うのでおかしいと思っていて気づいたのです。仕方なくNHK第2放送にチャンネルを切り替えると、芭蕉と楚良が金色堂を訪れたときに読んだ句を基に解説していました。普通なら金色堂も草原の中で消えてなくなっているはずなのに、鞘堂で囲われ風雨から守られたお陰で今に姿をとどめているという内容のなかなか聞き応えのあるいいお話でした。

 その続きで親鸞の教えに関する尼僧の話も面白く、ついつい聞き入ってしまいました。自分の今ある姿はすべて流れの中にあり、決してそのままで留まることはないということ、そして印象的だったことは、晩年に長男の善鸞が関東に赴き、いかにも親鸞がいったがごとくの説法をしたために、関東の人々の信仰が揺らぎました。そのことについて関東の信者に対して、「善鸞はもう自分の子供ではない。しかし、自分の考えと違うことがはっきりしたことは良かった」と怒りにとどめず前向きの姿勢で書き送っている姿は、いかにも親鸞らしいと思いました。

 北京二氏の話が音楽著作権の関係でインターネットでは聞けなかったことは残念でしたが、別の学習ができたのは幸いでした。


0月4日放送 「高血圧、最近のトピックス」
             兵庫県立リハビリテーション中央病院 元副院長 鳴瀧恭也

 講義を聞き、家庭血圧が重要ということなので、久しぶりに家の古い血圧計を取り出して、自分の血圧を測ってみました。長く使っていないためか機械の調子がよくないようで、測定するたびに値が異なります。最終的には上が105くらい、下が60〜70くらいで、脈拍は62でした。
先日来、医療機関で測定したときは上が120近くで下が70くらいで、医師からは「血圧はいいですね」と言われました。

 現職時代には上が100未満のことが度々あり、医師から「立ちくらみはしませんか」といわれたり、献血ができないことがよくありました。どうやら低血圧症らしく、朝眠りが浅くて布団の中でぐずぐずしていることがよくありました。私にとって自分の血圧に課題があるのかどうかわかりませんが、現状を受け入れ、特に努力をしていることもありません。


9月27日放送 「思い出のメロディ」
                  学生参加番組

 舟木一夫の「修学旅行」など、生活にぴったりの素晴らしい思い出のお手紙がありましたが、残念ながら、私には思い出の歌はありません。しいて言えば、「今日わ 赤ちゃん」かもしれません。長女が生まれて数ヶ月のころ、声を何とか録音しようとテープレコーダーを回していました。録音が終わって聴いてみると、偶然テレビの「今日わ 赤ちゃん」がバックグラウンドミュージックとして流れていました。

 私が小学生の低学年の頃だったと思います。学校から帰って宿題をしているとき、いつもラジオから「午後の交響曲」の番組が流れていました。その場に他の家族が居た記憶がないので、私ひとりで聞いていたのだと思います。そのせいで「新世界交響曲」など、多くのクラシック音楽を聞き覚えており、クラシック音楽が小さいときから好きでした。

 音楽好きといえば、夜眠るとき、母が子守唄をよく聴かせてくれました。その中で「歌を忘れたカナリヤ」の歌詞は自分も捨てられるのではと怖い思いをしたことを覚えています。また、手巻きの蓄音機があり、兄と「軽騎兵序曲」や「チャルダッシュ」のレコードがすり減ってよく聞こえない程くり返し毎日聴いていました。このこともクラシックや歌曲が好きになった理由かもしれません。

 母がいろいろな歌を聴かせてくれただけでなく、父も尺八を吹くのが好きで、姉のお琴と「さくら」や「六段」を合奏していたこともありました。そして大学に入ったとき、兄に習ってグリークラブに入部し、男声合唱のハーモニーの美しさに夢中になっていました。中でも黒人霊歌は大好きで、ニューヨークへ行ったとき、レコード屋で本場の黒人霊歌を探した程です。今は明石第九合唱団で、14年目の年末をめざして練習に励んでいます。


9月20日放送 「兵庫偉人伝」
               講談師 旭堂南海

 南海さんの講談はいつも面白く、今回も引き込まれて聴きました。荒木村重は卑怯者というレッテルを貼られて伝えられており、私もそう思っていました。今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」でも、村重の妻に助けられた官兵衛の立場から見ているので、何とも納得のいかない行動をとる村重だと思っていました。

 今日の講談を聴いていて、村重には村重としての立場や思いがあったことがよくわかりました。これらのことは時代背景をよほど理解しておかなければ、正確に心情や行動を理解することはできないと思いました。私達はついつい現代の価値観を基に判断しようとするので、間違ったとらえ方をするのだと思いました。

 海外のいろいろな事件や政策についても私達はよく批判しますが、平和で民主的な、そして豊かな日本と同様の時代背景だと考えると、間違ってとらえることになります。その国の歴史や経済状況、民族的な意識などをよく理解しなければ軽々しい批判はできないように思いました。


9月13日放送 「やすみりえのトキメキ川柳」
                  川柳作家 やすみりえ

 以前NHKTVで「やすみりえのトキメキ川柳」という番組に投稿したことがあります。番組が終了するときに入選作を掲載した単行本が発行されました。私の投稿した句は放送されませんでしたが佳作があったということでその本を送ってもらいました。また、「写真で一句」というコーナーでは、お正月にすることがなく、家内とふたりで和服を着て妻が詠んだ句を添えて投稿したところ、ふたりの写真と共に放映され、親戚から電話をもらったこともありました。

 退職した平成16年からNHKラジオ「ぼやき川柳」の選者・大西泰世先生の教室に通っています。ぼやき川柳のように笑いをとるような句より、人の心を素直に詠んだ句を選ばれます。また、やすみ先生がいわれたのと同じで、口語で詠むことが出来るので、親しみやすく思います。兼題や席題には力を注いでいますが、普段から自分の気持ちを詠むということはあまりしていません。このあたりは俳句の方が詠む機会が多くなるのかなと思います。その意味ではやすみ先生のように「恋」というテーマを持って詠むと、いろいろな恋の気持ちや様子が詠めるのかもしれないと思いました。ただ、私の場合は自分の経験したことや遭遇したことしか詠めないので、一つのテーマで一般的に起こるであろう気持ち(フィクション)については詠んでも空々しく思ってしまいます。


9月6日放送 「気象と防災」
              気象予報士 正木 明

 年々豪雨災害など異常気象と感じる現象が数多く起こっているように思います。神戸市の六甲山麓を見ていても、開発がどんどん山の中腹へと進んでいるのが電車の窓からも見られます。以前は高台に住むことがステータスのように言われていましたが、広島の大きな災害を見ていると、そうではないことがよくわかります。山麓に住んでいる人たちは不安に感じておられるのではないでしょうか?

 私の居住地は海の近くで、海抜もある程度あります。川からは離れていて、山という山のない平坦な地域で、たとえ猛烈な雨であっても降った雨は直ぐに海に流れ、洪水や崖崩れということはあり得ません。ただ、海岸に近く、遮るものがないので、台風が来ると大変です。潮風が吹き荒れると、庭の花や木々、菜園の野菜は塩もみされた状態になります。以前はテレビアンテナがすっかりだめになっていました。そのためにケーブルテレビにしています。幸いここ十数年、大きな台風が来ていないので助かっています。地域の人たちも良いところに住んでいて有り難いと言っています。

 気象予報についてある程度の知識はあったつもりでしたが、細かい定義があることは知りませんでした。気象庁のHPで改めて確認したいと思います。そしていつどこで災害に遭うかわからないので、気象情報に対する対応ができるようにしていきたいと思います。


8月30日放送 「おもしろひょうご楽」
               ラジオ関西パ−ソナリティ 山崎 整

 歌謡曲の世界ではご当地ソングが大流行です。毎月12曲の新曲に出会いますが、そのほとんどの歌詞に地名が入っています。特に女性が歌っている曲には題名に地名が入っている歌がたくさんあります。その場所を想像しながら歌うので、曲のイメージがよく浮かび、歌いやすかったり親しみが湧いたりします。

 兵庫県下にもたくさんのご当地ソングがあったのですね。ラジオ関西は「ラジオカレッジ」とそれに引き続いて放送される「玉岡かおるの社寺巡礼」くらいしか聴くことがないので、このような番組があることは知りませんでした。楽しそうな番組だなと思いました。早朝の番組であれば、ウォークのときに聴いても良いかなと思いました。

 それにしても我が町明石市の市歌が県下で最も古い自治体の歌であるということを聞き誇らしく思いました。しかし、神戸市で生まれ育った私は明石市歌は全く知りません。神戸市歌も中学時代に学校で教わりましたが、もうすっかり忘れてしまいました。後々歌うことがなかったからでしょう。兵庫県に関わる歌で最も歌われているのは「六甲おろし」だろうと思います。地域を歌った歌で最も印象深いのは長野県民かよく歌う「信濃の国」です。この歌はメロディーも歌詞の内容も最高で、長野県民みんなが誇らしげに歌っているように思いました。


8月23日放送 「神戸とJAZZ」
              ハモンドオルガン奏者 小曽根 実

 数年前、小学校の同窓会が北野のジャズレストランで開かれたことがあります。一般のお客さんも入っているので、店の一角を区切ることなく席が作られていたので、そばにいる人と話すぐらいで、みんなで近況を話し合うということはできませんでした。そんなことだからいよいよ演奏が始まると、お客さんは一斉に演奏を聴き、私語も出来ない状況でした。ジャズレストランが決してバックグラウンドミュージックというジャズではないということをその時初めて知りました。神戸の小学校の同窓会ならではということで、世話をする人がもっとも神戸らしい雰囲気で開催したいという気持ちの現れだったと思います。

 以前グループで神戸須磨離宮公園を訪れたとき、その道中で桜木町の小曽根邸があったところを通りました。広い敷地で、今は宗教団体の建物が建っています。終戦当時案内してくれた仲間が近所に住んでいて、なぜかよく遊びに行ったといっていたのですが、年令も4つ程しか違わないので小曽根実さんと交流があったのではないかと思います。そのとき当時の立派な屋敷での思い出を語ってくれました。また、平野の祇園神社の下に勝海舟が住んでいたという屋敷を見に行ったとき、表札に小曽根と書かれていたのを思い出しました。ひょっとするとご子息のどちらかが済んでおられるのかなと思います。

 読売テレビの「イレブンPM」を若い頃見たことがあります。私が見た頃に小曽根さんがまだ演奏していたかどうかわかりません。藤本義一が出ていたのは覚えていますが、音楽については全く記憶にありません。元々ジャズがあまり好きではないので印象にないのだろうと思います。今もNHKの夕方の番組で、神戸放送局のスタジオから素人とおぼしき人のジャズの演奏を放映していますが、あまり感動して聴いたことはありません。ただ、松方ホールで松永という少年が大人ふたりのベースとサックスをバックにオリジナルのジャズ曲をピアノで演奏したときにはすごいなと思いました。それぞれの奏者がアドリブで独演する場面がありましたが、途中で拍手がわき起こる場面もあり、演奏者にとってこれがたまらないのだろうと思います。ジャズが神戸で盛んだということの訳が今日のお話でよくわかりました。


8月16日放送 「兵庫街かど学\」
        園田学園女子大学名誉教授 田辺眞人

 兵庫県下にたくさんの城があるとお話しされましたが、ドライブをしていると至る所で城跡の表示を見かけます。その内のいくつかは現場へ登ったことがあります。私の住んでいるところにも魚住城跡があります。別所長治が籠城したとき、三木城へ兵糧を運ぶための砦の跡だといわれています。道中の村人が運搬に協力したこともあって、秀吉軍に多くの村人が殺され、サンマイが道中にあります。

 先日来、木之本や岡山県の福岡を訪ね、黒田官兵衛の先祖の動きについてよくわかっているつもりでいましたが、商品の流通を警護する武士だったということ、そして福岡が山陽道と川の流通経路の接点として栄えていたということを知り、納得できました。お爺さんが目薬の商いで富を得たこともよく理解できました。

 大河ドラマに見られる軍師としての黒田家に興味を持っていましたが、その背景を理解する上でとても興味深い講義でした。


8月9日放送 「法句経に学ぶ」
         総本山永観堂禅林寺管長 中西玄禮

 シルバー川柳の本を昨年もらって読んだことがあります。素人らしいウイットに富んだ川柳がたくさん掲載されていました。ただおもしろさ、笑いを強調する川柳は邪道だと言われているので、私にはあまり詠めません。

 法句経の内容は教えられることがたくさんありました。テキストを読んだだけではよく意味がつかめませんでしたが、解説していただくとよく理解できました。やはり講義を聴くことの大切さを感じました。

 最後の健老六訓はこの通り努めたいと思います。その中の一つ老飾は私にとって苦手なことです。生来のだらしなさと独りよがりなところがあるからだろうと思います。おしゃれなどするつもりはありませんが、せめて並の身だしなみくらいはしなければならないと反省しています。

8月2日放送 「宮沢賢治の心を読む」
 
               作家 草山万兎
 まず河合雅雄先生に作家としてのペンネームがあることを知りませんでした。直接お会いしてお話しさせていただいたことがありますが、やはり私にとっては雲の上の人でした。
そのときは講演していただいたのですが、ご高齢で言葉がやや聞き取りにくいかなと思ったのですが、今日の放送はそれほど心配はありませんでした。

 宮沢賢治に作品に最初に出会ったのが「風の又三郎」の映画でした。まだ小学生低学年だったこともあって、物語の内容はよく理解できませんでした。ただ「どどどどだだだだ……」と歌われた曲だけが印象に残っていました。その後いろいろな童話に接しましたが、、私にとっては難解で、納得して童話に引き込まれるということはありませんでした。

 その宮沢童話に専門の分野から分析されるユニークな研究に、童話の新たな観点を面白く聞かせてもらいました。学者は単に物語のおもしろさだけにとらわれない楽しさを見つけられるのだなと思いました。このような観点で物語を読み取ることは私には全くできないと思いました。


7月26日放送 「科学者が人間であること」
              JT生命誌研究館長 中村桂子

 科学技術の進歩は人間を豊にし、科学者や技術者の人類への貢献度は私達も認めるところです。しかし、歩きながら考えるという言葉がありますが、原子力発電やインターネットはまさに走りもって考える典型だと思います。そこから生まれるであろう弊害は後で考えればよいという考えで進んでいるように思います。

 これらは戦争の手段として生まれたところに原因があると思います。原子力爆弾の威力を使って相手を制圧する目的で、決して投下後に発生するであろう様々な障害のケアについては考えていなかったと思います。インターネットも軍の機密をいち早く伝えるために開発され、使用されていたものが、一般社会の通信手段としてさらに新たな方法が広まったけれども、悪人が使用するということに関しては全くその対策が完璧に作られていなかったため、様々な社会問題の原因になっています。

 人間も自然のの中で他の生物と同じように生存している限り、自然の中で生きることを考えなければなりません。自然の中で生きるためには人類は性善説の生きものであるべきなのですが、残念ながら、知恵と欲があるばっかりに性悪説を認めざるを得ません。科学技術の研究者が単に個々人だけでなく国家に対しても性悪説に基づいて研究を進めなければならないことは本当に残念なことだと思います。

7月19日放送 「夫婦円満になれるコツ」
             全国亭主関白協会会長 天野周一

 全国亭主関白協会のスローガンは本当に大切なことだと思います。これは夫婦間の問題ではなく日本を変えることに結びつくと言われました。私は世界を変えるスローガンだとまじめに思っています。お互いの国が自国の国益を守るという考えのもと一歩も譲らない、またそのような国のリーダーは素晴らしいと多くの国民は思っています。しかし、お互いがどのようにすればお互いが存続し、仲良くなれるかということを基本に考え努力すれば良いかをもっと真剣に考えれば決して戦争や争いは生じないと思います。

 ところで自分を振り返ると、愛の三原則や非勝三原則は私が男のプライドを捨てたときからほぼ身に付いていると自負しています。あいづち三原則はまだまだ出来ていなくて、妻の言葉を否定することがよくあり、そのたびに妻から不満の言葉が返って来ます。どうしても白いカラスを認めることが出来ないでいます。私にとってこれからの課題です。

7月12日放送 「広がる陶芸表現の歴史」
          兵庫陶芸美術館学芸員 マルテル 坂本牧子
 いなみ野学園の陶芸学科では、毎年4年生の卒業展が開かれます。4年間でプロ顔負けの力作が出来るようになるのだといつも感心させられます。

 私も知的障害の子ども達の陶芸作業のお手伝いをさせてもらった経験があります。昭和30年代の終わりごろは手びねりの作品を焼却炉のそばに耐火煉瓦で作った小さな窯で夜通しかけて焼きました。40年代にはいると手回しろくろで作った作品をガス窯で焼いていました。さらに、焼き物の土を今日のお話の今田町まで買いに行き、植木鉢や茶碗を焼いたりしました。

 施設が新しくなった機会に機械ろくろを備え、湯飲み茶碗を量産しました。さらに瀬戸から磁器の材料になる石粉を購入し、京都の清水で石膏の型を作ってもらい、釉薬も買って、鋳込みでとっくりやどんぶり鉢、花瓶などを制作しました。このときは電気窯で焼くのですが、安全のために子ども達のいない夜を徹して火を入れているので、私も泊まり込んで温度計とにらめっこしたものです。

 焼き物の醍醐味は窯出しのときです。正否がここで決まるからです。上手く焼けたとき、思った以上の作品が出来たときは思わず拍手していました。逆にひびが入っていたり、割れたり、思い通りに仕上がっていなかったときは、みんなの苦労を台無しにしたようで、火の番をした自分の責任を感じたりもしました。

 以前は丹波焼きを買い求めに今田町の窯元へはよく行きました。けれども震災後は食器を買うこともなく、丹波の陶芸館へもまだ行ったことはありません。秋頃に一度訪れてみたいなと思います。



7月5日放送 「落語家春蝶の泣き笑い人生」
 父親を尊敬できることはとても素晴らしいことだし、幸せな人生だと思います。道をそれた人々の多くは家族の間で尊敬の心や感謝の心が欠けていることが多いと思います。父親の跡を継ぎ、3代目春蝶を襲名したことによって、周りの人々から温かく迎えられているように思います。父親を尊敬している姿勢が見えるからだろうと思います。

 もう一つ心に残った言葉は、知覧の特攻隊平和記念館を題材に平和の大切さ、戦争によって人生半ばで命を失うことのむなしさを落語を通して訴えているということです。今安倍政権が自衛隊の集団的自衛権による強力軍事化を突き進んでいる印象を強くしています。私も知覧の記念館へ行き、遺書としての家族への手紙を読ませていただきました。真実を知らされないまま軍部のいうとおりに行動し、命を散らさねばならなかった優秀な若者の気持ちを考えると、平和であること、戦争を放棄してきた戦後の日本の貴重な体験を全世界に広めていくことこそが大切なのだろうと思います。


6月28日放送 「若々しい身体と頭を保つための10の生活習慣」
                 東京都リハビリテーション病院長 林 泰史

 同窓会に出かけても、同年齢にもかかわらず、若々しい人と老けているなと感じる人がいます。老けている人の多くは大病をしてリハビリ中であったり、これといった活動をしていない人です。スポーツをしたり、リーダーとしての活動をしている人は生き生きしています。

 また、同窓会では病気や体調不良、薬などが話題に上ります。私は病気の報告をしても、それ以上の活動報告をするようにしています。今年の集まりの近況報告では、昨年胃ガンの内視鏡手術をしたけれど、今年は四国歩き遍路に挑戦していると報告しています。また老人クラブにも積極的に取り組んでいることも報告しています。健康な間に地元の人たちとの活動をすることが、これからの元気を保つ上でもっとも大切なことだと考えているからです。

 食事は妻任せですが、野菜と魚を中心に気を配ってくれているので安心です。お酒は日本酒は杯1杯、ワインのときも小さなグラス1杯、ビールのときは350mlの缶ビール1本です。週に3〜4回飲む程度で、月1回の地元グループの飲み会でも、せいぜい缶ビール2本です。

 コレステロールは悪玉の値が多少高く、善玉は基準値を下回ります。医師は食事指導をするから家内と一緒に来院するように言いますが、気にしていません。歩き遍路になれてくると、歩くことが全く苦にならなくなります。このような生活をしているためか、人から老けているとあまりいわれません。

 視力が衰え、筋力が弱ってきたことには実感することが多く、転ばないようにだけは気をつけていますが、今のところ生活に支障を来す程ではないので、気持ちの上で若々しさを保つようにしたいと思っています。


6月21日放送 「高齢者の心理的課題」
 高齢になってなおかつ現役時代のプライドを持ち続けておれば、不満やストレスがさぞ多いだろうと思います。これは社会における態度も家庭内における態度も共通していることだと思います。稼いだお金で自分の家族を養ったり、会社で部下を指導していた自分が、退職後、それらが出来なくなったときに自分の役割を自覚したとき、社会や家庭内での自分の態度を変えなければなりません。

 私の場合、退職後に高齢者大学でいろいろな高齢者の生き方に接することが出来、どのように自分のプライドを捨て、周りの人々にどのように接することが大切かを学習することが出来ました。お陰で今地域の人々と仲良く楽しく過ごしています。現職時代には想像もしなかった日々です。前向きの地域の人々と同じ目線で共に活動することこそ高齢期の幸せにつながることだと思っています。理屈ではなく実践あるのみだと思っています。


6月14日放送 「人間の最高価値としての態度価値」
                  早稲田大学名誉教授 加藤諦三

 四国歩き遍路に出かけた時、毎食前に先達に習って「一粒の米にも万人の労苦を思い、一滴の水にも天地のご恩得を感謝し、有り難くいただきます」と唱和してから食べます。初めのうちは形式的に唱和していましたが、毎食繰り返している内に言葉の意味が身にしみてきます。それは雨や雪の中、極寒や猛暑の中など極限に近い状況の中で歩き疲れ、やっとたどり着いた食堂や宿での食事だからかもしれません。そして、その思いを決定づけたのは、石鎚山横峰寺の登り口で見つけた「感謝の心が持てる人が、この世で幸せになれる人」というポスターでした。以後、家でも「有り難う、いただきます」といってから食事をします。食事を作る妻も悪い気持ちはしないようです。

 今日の話の中に「まわりの人とのつながりの中における態度価値こそが最高価値である」という意味の話をされました。最高の態度価値は「感謝の心」を持つか否かによるのではないかと思いました。以前中西玄禮氏が「和顔愛語」について話されたとき、「たとえ寝たきりになっても、介護してもらうまわりの人に笑顔で有り難うと感謝の言葉を言えば、自分もまわりの人も幸せになれる」と話されました。今の状況を受け入れ、感謝の心を現すことこそが大切だということこそが、最高の態度価値だと思います。そのためにも今を活かされていることに感謝し、少しでも周りの人々のお役に立つことこそが生きがいだと思いながらこの先過ごしていきたいと思います。


6月7日放送 「老いの戒め」
                 作家 下重暁子

 「人のふり見て我がふり直せ」 まさにそのことが老いの戒めなのだと思いました。私の身の回りにいろいろな高齢者がいます。もっとも極端なのが、この世の中は自分中心に動いていると思いこみ、自分にとって都合の悪いことは相手が悪いからだ批判する態度です。自分にこのようなところがないか常に注意しなければなりません。

 次に既得権にこだわるタイプです。「以前こうしてもらっていた」と言ったり、「年金を減らされると困る」等々、現状を理解せず必要以上に恩恵にあずかろうとする欲張り高齢者です。自分の身にあった生活をしなければならないと思っています。

 高齢者はせっかちだと言われます。私の所属する老人クラブでは、集合は開始や出発15分前だという不文律があります。不ラウンドゴルフも開始時間15分前に集合しておくようにと最初にいわれました。親睦旅行でも15分前までに行っておかなければ「あいつは遅い」と先に来たものが批判しています。自分は早く行くように気をつけていますが、人の批判まではしたくないなと思います。そのような習慣が身に付いてしまったのか、家では出かける際にせっかちだといつも言われます。時と場所に応じて気を配らなければならないと思います。

 昔の名前はできるかぎり表に出さないようにしています。そのためにプライドを捨てることが大切だと思いました。食後の皿洗いをしたり、掃除機をかけたり、洗濯物を取り入れてたたんだりするなど、家庭内で誰にでも出来る雑用を黙ってこなすことでプライドを捨てることが出来たように思います。外でも自分で役立つことなら拒否せずに快くやるようにしています。このようなことが自分の生きがいにつながっていくようにも思えます。

 喜寿の挑戦として歩き遍路に参加しています。9年前にも歩き遍路に参加しました。そのとき高齢の人がみんなから大きく遅れ、その人を待つために予定がどんどん遅れたことを不満に思ったことがあります。今回歩いていて、山の上り下りで自分が同じように遅れて迷惑をかける場面に直面しています。未だ今のところ前に人が見えなくなる程遅れていないのと、10人程にグループで同じレベルの人がもう一人いることから、引き時に気をつけながらもう少し頑張ってみたいと思っています。


5月31日放送 「ブラジル移民104年の今」
             NPO法人関西ブラジル人コミュニティ理事長 松原マリア

 ブラジル移民が始まって104年にもなり、その数25万人というのを聞き驚きました。北海道や国外への開拓団の話を聞く度、その苦労は大変だったという話をいろいろ聞きます。そのときにまじめでねばり強い日本人の努力によって、それぞれに幸せをつかんだ人がたくさんいます。その中で満州の開拓団だけは侵略地だったということで何も報われるものがなかったようです。さらに引き上げる段階で命を落とした人もたくさんいます。このような政策を進めた当時の政治家の判断の誤りは多くの国民を不幸に陥れたことになります。今も国民の安全と財産を守るというスローガンのもと、政治的判断をしようとしていますが、国民の幸せに本当に結びつくのか、難しいところです。

 今労働力不足で、ブラジルへ移民していった日本人の子孫が19万人も働きに来ているとのこと、日本から移民を受け入れてくれたブラジルのためにも、まじめに働こうとする彼らが少しでも幸せになってほしいものです。そのための努力をNPOだけにまかせるのではなく、日本の国としてしっかり守れるように努力しなければならないと思います。

5月24日放送 「本科生にむけて〜知事あいさつ」
                    ひょうごラジオカレッジ事務局

 阪神淡路大震災から20年を迎えようとしています。この一年間で「伝える」「備える」「活かす」をテーマに事業を進めていくといわれました。自分が震災後何を考えているかと問い直してみると、寝室の窓のガラスの飛散を防ぐためにカーテンを必ず閉めて眠ること、津波発生時にはいち早く高台に逃げることを心がけるぐらいしかありません。それ以外は今まで通りの生活をしています。私はどちらかといえば運命論者に近い方なのです。だから、地震など災害発生時にどこにいるかわからないので、そのときの対応を考えておけばよいと思っています。もし災害で自分が死ぬようなことがあってもそれは自分の寿命だと思っています。

 人口が減少することについても、戦争という異常な状況から、戦後のベビーブームが起こり、その影響が日本の社会のさまざまな発展と変貌をもたらしてきました。さらに科学の進歩によってグローバルな世界観が日本の国民性や価値観を変えてしまいました。野生の動物にも劣るような親子間の行為をする日本人すら現れてきています。それでも日本人のモラルはまだまだ捨てたものではないと思っています。デモ隊が暴徒になり、放火や略奪するような事件を引き起こすようなことは決してしないと思っています。日本の年齢別の人口構成が異常であるために超高齢社会を迎えたり、人口減少になるのも仕方ないことで、その巾が長い年月と共に小さくなっていくので、そのときにどのような社会にしていくかを大切にすべきだと思います。

 超高齢社会を生きる私達高齢者は、既得権やさらなる要求を主張してはいけないと思っています。自分たち自身の知恵と工夫によって元気に楽しく生き続けると共に、若い人たちの手の届かないところを進んでお手伝いするボランティア精神を大切にすれば地域は活性化し、決してモラルの低下にはならないと思っています。そのためには高齢者大学やラジオカレッジなど、高齢者のための生涯学習の場が身近にあることが大切だと思います。4月に2人の方に声掛けをしましたが、これからもラジオカレッジの普及に心がけていきたいと思います。


5月17日放送 アンコールアワーA「老後安心相談所」
                           弁護士 住田裕子

 相続についてケースごとに解説されたので、非常に理解しやすく思いました。自分のケースはどうだろうと考えてみました。子供が2人いるので、妻と子供に相続できると実に単純に考えました。娘には子供が3人いるので、たとえ娘が先になくなっていても相続先は心配ありませんが、息子にはまだ子供がいません。息子が先になくなれば、嫁には全く相続が出来なくなるので、この点は遺言などで何らかの措置をしておかなければ、これまでの苦労に報いることが出来ません。このあたりが難しいなと思いました。

 私のごく身近なところで、祖父の代の不動産の相続について、トラブルが起こっています。私達の親の時代では、まだまだ家を継ぎ、先祖の墓や仏壇を守る人に優先的に相続するという意識がありましたが、我々にも権利があっただろうと新宅からクレームが付いています。相続時に遺産放棄の手続きが家庭裁判所でなされており、すでに処理されているので、今さら問題にされても困るわけで本家は頭を痛めています。仲良くしていた親族が、突然仲違いをしてしまうという相続問題については心しておかなければならないと痛感しています。

5月10日放送 アンコールアワー@「老いは二十代から」
                           作家 三浦朱門

 中年太りといわれますが、私の場合44〜5歳ごろに始まりました。それまで現場で走り回っていたのですが、突然肢体不自由児を担当することになったのです。それまでの動きから非常にゆっくりしたペースになり、52.5sの体重が55〜6sになりました。その後デスクワークになり、53歳で窓際族になり、一日中机の前に座っている日々になりました。結果65sになりズボンの胴回りサイズも76cmだったのが85cmでも窮屈になりました。そのころ白髪も急に増え、髪の毛が細くなったように思います。1年間で現場に戻りましたが、デスクワーク中心だったので、62sを割ることはありませんでした。

 車通勤をはじめるようになり、また体重が増えそうになったので、夕食後1時間あまり毎日歩くことにしました。お陰で体重も減り始め、60歳で定年を迎えた後は、第2の職場で規則正しい生活が可能になり、65歳ごろには58〜9sを保つことが出来るようになりました。第2の職場も卒業し、サンデー毎日になり、畑仕事などをしていると体重が増えることはありませんでした。その後四国歩き遍路や小豆島歩き遍路に挑戦し、5年間日常生活で歩くことが多くなりました。

 昨年胃ガンの内視鏡手術をし、1週間の入院生活をしましたが、その後の体重は55〜6sでそれ以上増えることがなくなりました。年令と共に、いったん減った体重は戻らないことがわかりました。きっと筋肉が付かないからだろうと思います。まさに老いの現象なのだと思います。今年4月からまた月1回、1泊2日の四国歩き遍路に挑戦しています。今回は山や峠越えなど、自然豊かなところだけ歩き平地はバスで移動します。喜寿の年令では山道は登りも下りもとてもきつく感じます。膝の調子も思わしくありません。最後まで歩き通せるかわかりませんが、目的のある日々を送りたいと思っています。

5月3日放送 「恋人もいないのに」
              歌手 田中ゆみ

 若い頃は「風」など耳に印象に残ったメロディーはよく聴きましたが、フォークソングとしてはあまり関心を持っていませんでした。グリークラブに所属していたこともあって、耳にやさしいメロディーやハーモニー、そしてクラシック音楽の美しいメロディーばかりを追いかけていたように思います。したがって歌詞を理解しようとはあまりしていなかったので、フォークソングの歌手や曲名はあまり知りませんでした。フォークソングに関心を持たなかった理由の一つに、発声もいい加減で、ただ自分の思いをギターに載せて独りよがりの言葉を適当に歌っていると印象があったからです。

 今回のシモンズの田中ゆみという名前を聞いても、「恋人もいないのに」というタイトルを聞いてもピンと来ませんでした。講座で曲が流れてきた時、この曲なら聞いたことがあると思いました。そして、この曲を歌っていたのがシモンズという名前のグループだということも初めて知りました。歌好きの少女がいろいろな思いをテレビやラジオメディアに乗って夢を実現させていくというお話でしたが、そうした幸運に恵まれてデビューした人たちが今もたくさんいるように思います。音楽学校や俳優養成所で実力をつけたり、歌舞伎や狂言など、子供の頃から厳しい訓練を経て、歌手や俳優になるべくしてなった人たちと違って、幸運をつかむきっかけがあった人たちのみに与えられたデビューなので、その道の基礎のない人たちも結構います。それでも中途半端な努力と挑戦で夢を実現することが出来なかった人たちがたくさんいるなかで、自分の好きなことを自分なりに努力し、積極的に挑戦することによって夢を実現させた田中ゆみは立派だと思いました。彼女のその後の人生でいろいろな苦難があったと思いますが、常に感謝の気持ちを忘れなかったことが、息の長い活動を今も続けられているのだとお話を聴いていて感じました。

 最近は演歌を歌うようになって、多少歌詞に関心を持つようになってきました。それでもメロディーの美しい曲には惹かれてしまいます。歌詞もメロディーも素晴らしい曲には滅多にお目にかかりませんが……

4月26日放送 「ドイツの一人勝ち」
           元経済産業事務次官 北畑隆生

 きまじめで礼儀正しく、モラルの高さにおいては確かにドイツ人と日本人の気質に共通したところがあったと思います。だから両国の自動車は世界的にその水準の高さが認められています。しかし、最近の日本人社会に蔓延する「ノルマ」という重圧がのしかかり、モラルの崩壊を感じさせる風潮がある気がしてなりません。積極的、創造的な気質が護身的な気質に変化してきています。

 まず、政治家が自分の党に都合が良いように政治の仕組みを変えたり、党の間を渡り歩き、議員としての保身にうつつを抜かしています。そのために、国と地方公共団体の借金は1兆円を超えてしまいました。そして、このままの政策が続けば借金は鰻登りに増えていくといわれています。さらに、他党の政策の批判や議員の言動にばかりに目を向けている国会審議は、日本の国の発展や国民の暮らしから目線がそれてしまっていると言われてもしかたありません。プライドだけは高く、自分の身を削ることにはきわめて消極的で、かけ声倒ればかりです。

 一方、企業も生き残りという言葉が横行しているように、現場を海外に移し、将来の日本の発展やこれから日本を背負って生きていこうとする若い日本人の生き方に大きく影響を及ぼしているように思います。だから多くの日本人は、将来の日本社会がどうなるのか想像も出来なくなっています。そのことがこれまでの日本人気質を失わせ、モラルを低くさせていると思います。

 もう一つ、戦後アメリカの影響を大きく受けたこともあると思います。倹約家であった日本人から、大量生産、大量消費を良しとし、もったいないという感性を失ったように思います。このことは忍耐強さも失うことになり、利己的な気質や衝動的な行動をする気質になったように思います。ものの哀れの感性を取り戻すのは難しいかもしれませんが、周りの人々に思いをはせる気持ちだけは取り戻してほしいと思います。

4月19日放送 「童話を書いていきいき人生」
           児童文学作家・教育評論家 漆原智良

 立松和平の文章は大好きでよく読みました。ファンタスティックというか、ほのぼのとした表現が特に好きでした。そして、テレビに出演され、自然の描写などを語られているのをよく視聴したものです。その原点が漆原智良の童話にあったとは知りませんでした。そしてその漆原の童話の原点が、母親の読み聞かせにあったことは驚きでした。三つ子の魂百までといいますが、乳幼児の頃の体験によって育まれる感性こそが大切だと思います。私も母親によく子守唄を歌ってもらっていましたが、姉を除く兄も弟も歌が大好きで、大学時代には3人ともグリークラブに所属していました。漆原智良の童話を読んだことはありませんが、一度読んでみて立松和平の文章にどのような影響を及ぼしていたか比べてみたいと思います。

 浜田広介の『泣いた赤鬼』は小学生の時に読み、感動して自分で絵巻物語りに描いたことがあります。あの偏見にとらわれないことの大切さに目覚めさせられた新鮮さを小学生なりに感じ取ったのだと思います。私には童話を書く文才などありませんが、まわりの事柄から高齢期なりにいろいろ感じ取る感性を大切にしたいと思います。

4月12日放送 「かんにんしてや」
                  歌手・俳優 佐川満男

 須磨の鉢伏山の中腹に佐川満男さんの家が見えているという話は若い頃からよく聞いていました。その佐川満男さんが伊東ゆかりさんと結婚したということで、その家に住んでおられるのだと当時思っていました。そのように親しみを感じていた佐川さんが芸能界から姿を消し、伊東さんとも離婚したという話を聞き、忘れ去られた存在になりました。世間でのプライドを失ったことと、焦りが原因だったことを初めて知りました。

 やがて俳優としてテレビにも姿が見られるようになり、歌手から俳優に転向され、歌は止めて仕舞われたのだと思っていました。今日のお話で歌の方も頑張っておられることを知りました。

 佐川さんの絵については全く知りませんでした。だから、表舞台にでるきっかけが画家の中西勝さんの力添えであったと言うことも意外でいした。中西画伯の絵は神戸新聞に定期的に掲載され、やはり親しみを感じていました。妹尾河童さんの『少年H』を読んでいて、やはり画家集団に才能を育てられたということをしりましたが、神戸在住の画家たちに無名の若者の才能を引き出す潜在的な力があったんだと思いました。

 およそ芸能人と言うより、一般の高齢者と同じ生き方で、山登りを続けながらやりたいことを自由な思いでやっていくと話される佐川さんに、いっそうの親しみを感じました。

4月5日放送 「『いつ死んでもいい』老い方」
               お茶の水女子大学名誉教授 外山滋比古

 高齢者が元気でないといわれましたが、私のまわりの高齢者は元気な人が多いように思います。それは近隣の人々と老人クラブの活動などで交流が多いからだと思います。しかし、家に引きこもっている人たちは目にしないので、元気がないのかもしれません。

 私自身を考えてみると、生きがいのある活動が多いので、それほど淋しく思っていません。五つの散歩について考えると、
 @『足の散歩』 毎日散歩するわけではありませんが、4月7日から始まる四国歩き遍路をめざして、今日も17,000歩ほど歩きました。このところ意識しているので、散歩でなくても出かけた時にわざわざ家から離れた駅で降りて歩いたりしています。週2回のグラウンドゴルフにも出かけるようにしています。

 A『手の散歩』 食事は作りませんが、準備を手伝ったり、食後の洗い物はやっています。また日々パソコンのキーを叩いています。自分のホームページに日記などをかき込むようにしています。

 B「口の散歩」 いろいろなグループに出かけますが、女性ばかりの集まりや、年配の人たちとの集まりだったりで、聞き役の方が多く、自分からあまり話していないように思います。家でも妻が耳がよく聞こえないためあまり話しかけません。歌だけはよく歌っています。

 C『目と耳の散歩』 カラオケを毎日する訳ではありませんが、楽譜を見ながらラジオから流れるメロディーに合わせて歌います。もちろんテレビもよく見ます。朝の連続テレビ小説など、ほとんど欠かすことはありません。

 D『頭の散歩』 月2曲以上のカラオケの新曲を覚えて歌ったり、週1回のラジオカレッジの感想文を書いたり、グループや老人クラブの月例会の案内状を作成したりと、頭は出来るだけ使うようにしています。

 その他に小学生の見守り活動や、女性カラオケグループの機器操作など、少しでも身近なところで役立つ喜びも感じています。ただ、痴呆が進んでいることだけが気がかりですが、毎日予定が詰まっているので、元気を失うことは今のところないと思っています。