平成25年度の感想文「私の心のこだま」


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3月29日放送 「1年の学習を終えるにあたって」
                        学生(本科生)参加番組

 入学するまでは、いろいろなところで頑張っている人、いろいろな考えがあることに気が付かなかったという感想はその通りだと思います。高齢者のこれまでの長い人生は人それぞれだったのですから当然なことですが、現役時代は一つの道にまっしぐらに進んでいて、まわりが見えていなかったという思いは私も同じです。

 自分の専門外のことや興味のなかったことについても著名な人の話を聞くと、教えられることがたくさんあることに気づきます。その喜びこそが明日への継続する力になったと思っています。講師をしてる時には放送内容や運営についていろいろな批判をいただいたことを思い出しました。講師時代に大切にしていたことは、返信を書く時に決して否定的な言葉を使わないよう心がけるということでした。だから同じ放送に関しても返信は人によって矛盾していたこともありました。明石市友の会のように、講師の返信を参加者の前で朗読していると聞いた時にはこれは大変だと思ったりもしました。

 一方で、私の返信に対する感想文を改めて送ってこられる方や、疑問点に答えるお手紙をいただいた方もありました。本科生の皆さんに自分が育てられたと思うこともたくさんありました。放送大学における経験は、私の生き方において貴重な学習の場だったと今改めて感謝しています。


3月22日放送 「放送大学で私が学んだこと」
                        学生(聴講生・生涯聴講生)参加番組

 「三日坊主の自分がよく継続できたものだ」というお話がありました。私自身も8年もの間、1回も欠かさずに感想文をホームページによくアップできたとものだと同じことを考えていました。しかし、ここ学生参加番組2回は寝床でノートもとらずに聞き流し、感想文を今日までアップできなかったことを反省しています。テキストで事前学習が出来ないこともありますが、昨年3月に講師を辞退して心に隙が出来たからだと思っています。それまでは書き続けているという達成感がありましたが、忙しさに紛れて後回しにすることによって、心に引っかかりを持ち続けることになりました。

 これまでは生活のリズムとして聴講を維持してきましたが、講師を辞退すると、インターネットでいつでも聴くことができると思う心が大きくなり、生で放送を聴く姿勢が崩れていき、生活のリズムの中からラジオカレッジが失われていったように思います。

 もう一つ、「戦争中にはこのようなラジオによる学習を続けることなど想像も出来なかった」という感想がありました。30年賛辞を受けられるなど、長く継続されている方々がおられますが、このことは日本が戦後平和を大切にしてきたことの証だと思いました。今の政治家のなかには、集団的自衛権や武器輸出解禁など平和を手放そうと考える危うさがあり、戦争の悲惨さを知らない「戦争を知らない世代たち」が中心になりつつあることを痛感しています。いつまでもラジオカレッジで学び続けることの出来る日本でありたいと願っています。


3月15日放送 「漢字方言」
             早稲田大学教授 笹原宏之

 私が最初にいわゆる方言漢字を意識したのは、九州旅行で「田原坂」など、「原」を「はる」と読むことでした。これは九州だけの読み方なんだと思ったのです。最近では講師が話されたように「城」を「ぐすく」と説明されたことでした。沖縄の場合お城をぐすくといっていたのでそれは当然だし、北海道でもアイヌ語に漢字を当てたのだからあり得ることと納得していました。

 今日のお話で播磨の「播」がこの地域独特の読み方であり、篠山の「篠」が他地区で「ささ」とは読まないということには驚きました。そういえば寿司のように同じものをいろいろな漢字で表す言葉がたくさんあるというのも方言漢字だということもわかりました。名前も読み方によって出身地がわかるというのも面白いなと思いました。私が写経に行く明石の高家寺でも、住職は「井藤」姓ですが、「藤」を「とう」と読むのは珍しいと思っていたのが、関東では「とう」と読むのが当たり前で、「ふじ」と読む方が珍しいのだということにも驚きました。

 地名の読み方には難しさを常に感じています。「姫路」は東西で同じ読み仮名をつけますが、アクセントは東西で全く違います。これなどはアナウンサーは標準語で発音しますが、地元のアクセントを大切にすべきだと思います。かといっていくら関西であっても「質屋」を「ひちや」と読むのが正しいなどとは思いませんが……
 

3月8日放送 「亀渕昭信のロックンロール伝」
              ラジオパーソナリティー 亀渕昭信

 私にとってはロックンロールもロカビリーもジャズも区別がつきません。ビートルズといえば「イェスタディ」のように素晴らしい歌もあるけれど、総じてジャズなどと同じように騒がしい音楽という印象があります。ましてやロカビリーのように体勢と崩しながら怒鳴り散らしたような歌い方はどうしても好きになりません。この傾向を受け継いだ若者が今もきれいな発声というよりもわざと聞き苦しい発声で飛び跳ねながら歌っているのは聞くに堪えません。にもかかわらず大ホールに超満員の観客を集めて大騒ぎしているのですから、観衆の気持ちも理解できません。これに似たコンサートに行くと、歌にあわせて観客に手拍子を求めたり、復唱を求めたりするので、気持ちがしらけてしまいます。さらに耳をつんざくようなボリュームで雑音とまで感じる音楽を聴かされた日にはたまったものではありません。だから名の知られたグループや若者の発声の悪い声で歌う番組がかかると直ぐにチャンネルを変えてしまいます。音楽は感動する技をしっかり聞かせてほしいと思います。

 私は学生時代男声合唱団で歌っていました。男声合唱独特の美しいハーモニー、心おどるリズムをしっかり伝えたいと思って歌っていました。さらに歌詞の内容が上手く表現できれば最高でした。そんなときは割れんばかりの拍手をもらったものです。当時「ゴールデンゲート カルテット」というアメリカの黒人カルテットが歌う黒人霊歌を感動しながら聴いていました。それまでも、家に手でゼンマイを巻き上げる蓄音機があり、軽騎兵序曲などを子供の時から繰り返し聞いていたし、ラジオでも午後の交響曲の時間という番組がかかっていてクラシック音楽に親しんでいました。さらに高校の音楽の先生が藤山一郎と音楽大学で同窓だったことから、きれいな声で歌い、指導してくださったということで、ますます純粋な音楽が好きになりました。ポピュラー音楽というジャンルで楽しんで聞くことができるのは静かに歌うグループの歌声です。きっかけは「風」を鉱石ラジオで聴いた高校時代でした。しかし、最近の歌は同じメロディーを単純にくり返しながら歌うフォークソングが増えたように思います。こんな曲は聴く気にはなりません。

 今の私の音楽生活は一つは明石第九合唱団で歌うことです。6月から12月まで週1回のペースで練習し、12月にオーケストラ伴奏で歌います。もう一つは老人クラブの仲間と演歌を歌っています。男性のグループと女性グループの機械操作の時に歌うのですが、女性は新曲に挑戦し、私も歌わされるので、男性のカラオケでも、私は女性の新曲ばかり歌っています。元々演歌はあまり好きではありませんでしたが、節回しなど慣れてくると結構新たな挑戦として楽しむことが出来るようになりました。そのときも発声は出来るだけ第九で歌っている時に指導されたことに注意しながら歌うようにしています。


3月1日放送 「80歳でエヴェレスト登頂 −希望の奇跡−」
          プロスキーヤー・クラーク記念国際高等学校校長 三浦雄一郎

 エヴェレストに3度登頂されたということですが、そのための努力は生半可なものではなかったと思います。努力の様子、80歳での登頂の様子の一部をテレビで見ましたが、おもりを足につけ、重いリュックを背負って歩行されている様子を驚いて見たものです。目的意識が強く、初志貫徹される意志力があってこそだと思います。
 9年前にはじめた四国歩き遍路は4年間かけて1200qを歩いて結願しました。今度は山にある遍路道を逆打ちしたいと思っています。峠越えをする道だけ歩き、平地はバスで移動するので、2年間で結願できます。しかし、三浦氏のように平常の努力をほとんどしていないので、自信がありません。あと一月、どのような努力をするのかじっくり考えて実践し、せっかく誘われているこの機会に何とか参加して歩き通したいと思います。そのためにも目標を持って明日から1時間でも2時間でも時間を割いて実行あるのみです。


2月22日放送 「日本人の暦」
             俳人 長谷川 櫂

 暦については太陽暦と旧暦については知っていましたが、太古の暦については知りませんでした。旧暦は一般庶民でも判断できる月の満ち欠けをもとにしているので、カレンダーのない時代でも理解しやすかったことと思います。月初めや月末という言葉が太陽暦の月の始めや終わりだけでなく、月が見えなくなる、新しいつきが見え始めるとする旧暦とあわせて考えるとよく理解できます。外国のカレンダーの月は、Marchなどのように月とは関係のない名前が付いていますが、日本は1月、2月などとあくまで月にこだわっているのは旧暦によるものだということもよく理解できました。そして15日という日に行事があるのは満月に関係があったということ、そして太古の暦がこの日を基準にしていたということもよくわかりました。24節季については農業国としてはとても貴重なことだったろうと思います。ただ太陽暦を日常使っている私にとってはときどき違和感がありましたが、明治になるまで旧暦と太陽暦に近い24節季を上手く取り上げていたのだということがわかり、24節季は太陽暦を使っている私には旧暦より違和感がないのだということもわかりました。

 長谷川先生が最後に話された日本人は新しいものを上手く取り入れ古いものと融合させることが上手い民族だといわれましたが、まさにその通りだと思います。よく筋を通せという言葉にとまどいを感じたことがあります。矛盾があってもそのときどきにもっともよいように判断決着させる、相手の違いも受け入れていくという和の精神を大切にする気持ちをこれからも失いたくないと思います。きっと一神教を信じる外国人とのつきあいでは理解されないと思いますが、日本人の特性として外国人にも学ばせることも大切かもしれません。


2月15日放送 「『少年H』で伝えたかったこと」
               舞台美術家・エッセイスト 妹尾河童

 昨年夏に「少年H」を読み、映画を観ました。そのときは私の知っている地域、共通体験などがあって、共感しながらとても興味深く読み、映画を観ました。だから今日のお話をとても楽しみにしていました。お話を聴いていて、もっと作者の深い思いがあったことを知り、少々自分の浅はかさを悔いています。

 確かに今強い日本が強調され、外国とのいい関係を持つための手がかりが見つからないように思います。国益のためには相手国に毅然とした態度で立ち向かわねばならないというのが戦後生まれの阿部首相を初めとする今の政治家の姿勢のように思われます。国民の中にも同じ思いをしている人は確かにいます。そもそも石原元東京都知事が尖閣諸島を買い取ると言い出したことから端を発して、その後の中国との関係が冷え切ってしまいました。さらに島根県が竹島の日を設定して韓国との関係を悪化させてしまいました。関係が悪化すれば、南京虐殺事件、韓国女性への人権無視など過去の事件がどんどん蒸し返されていきます。これらは相手国の国民の気持ちに全く配慮しないやり方だったからです。そのことは北方4島の返還を願う日本国民の気持ちをロシアが無視して支配し続けているやり方と同じなのです。

 私達国民は決して戦争を望んでいません。なぜなら太平洋戦争において、戦争とは人と人の殺し合いで、多くの人を殺した方が勝ちだという馬鹿げたことを学んだからです。戦争を防ぐのはお互いの信頼関係だけだと思います。韓国、中国、ロシアをはじめ、外国の人々との信頼関係を結ぶにはどうすればよいかを真剣に考えることを政治家も国民も大切にして判断し、選挙に臨まなければならないし、そのような世論を高めていく必要があると思います。


2月8日放送 「究極のクロマグロ 完全養殖物語」
                 近畿大学名誉教授 熊井英水

 養殖は「いけすを作り、餌をばらまいておけばどんどん育っていく」くらいの安易な印象を持っていました。それはかつて職場で錦鯉の養殖をした経験があるからです。親の錦鯉を大きな水槽(最初は防火用水)で飼い、植物の名前は忘れましたが、産卵期にその枝を水に沈めておきます。卵を産み付けたのがわかるとその枝を別の小さな水槽に移し、空気を送り続けます。やがて付加すると、ミジンコのえさを与えます。それと共に、別の水槽に鶏糞を入れてミジンコやボウフラを発生させます。稚魚のいる水槽は常にPhを計測して酸やアルカリが強くならないように見守ります。特に夏場は休みの日もなく見守り続けなければなりませんでした。そして、成魚になってもPhの計測は続けていました。稚魚も少し大きくなると大きな水槽に戻します。大きくなるにつれてボウフラも食べ尽くすので、夏に蚊に刺されることはありませんでした。

 秋になると5〜10pほどに成長します。明石の中崎海岸に水族館があった頃、そこで幼魚を販売しました。マニアは朝一番にやってきて、模様のいいものを見つけて買っていきます。中には大きくなると何万、何十万の値打ちが出るものもあるのかもしれません。しかし、売り手の私達はどのような鯉が値打ちがあるのかわからないので、育った幼魚はすべて売るからです。夕方白い鯉など売れ残った鯉を魚住に出来たライオン歯磨の会社がすべて引き取ってくれました。

 しかし、海の場合は自然の環境で、赤潮と台風以外はそれほど問題はないなどと思っていましたが、新しい試みにはたくさんの苦労があったのですね。第一たくさんの卵を採取し、いくらかでも孵化に成功しても、成魚まで成長するのは数匹という話を聞くと、もう大変なことだったのですね。ウナギやマグロの多くが自然界の稚魚を養殖するということなので、やはり漁獲量が減っていくのは当然だと思います。その意味で、将来人工孵化させて、鮭のように放流することが大切になってくるのでしょうね。ただ、マグロは鮭のように生まれ故郷に帰ってくるのかどうかわからないだけに、どれだけ成果があったかわからず難しさは大きいと思います。その意味でも熊井先生の完全養殖という功績は大きいと思います。


2月1日放送 「超<集客力>革命 −人気美術館が知っているお客の呼び方−」
               兵庫県立美術館長 蓑 豊

 兵庫県立美術館へは、開館間もない頃の「ゴッホ展」に行きました。たまたま入場券が手に入ったということで行ったのです。その後2〜3年経って、是非観たいと思っていた昔の映画を上映するということで出かけました。そして昨年11月末に、神戸ビエンナーレの会場になっていたので訪れました。考えてみればたった3回しか訪れていないのです。

 訪れる機会がないのは、自宅からは遠方だと感じることのほかに、是非出かけていって観たいと思う気持ちを起こさせるようなテーマがなかったことにもよります。しかし、考えてみる「1.17メモリアルウォーク」で美術館の近くまで何度もいっていますが、震災記念館へ寄っても、美術館には寄ることがありません。ただ、昨年訪れた時屋上の蛙には驚きました。とても印象的で、遠くからでも見えるのがいいと思いました。しかし、ビエンナーレの会場は県立美術館のほんの一部だけで、全体の展示を見学することは出来ませんでした。だからエントランスの仕掛けも見ていません。今日の話を聞いておれば、別料金を払って入れば良かったと思いました。

 館長も話されましたが、私の美術館に対する印象といえば、名画をそ静かに鑑賞するのであって、これまで子供連れは遠慮していたと思います。明石市文化博物館の展覧会には年に数回でかけますが、ここでも静かに鑑賞し、中でおしゃべりをしている女性に出くわすと不謹慎な人たちだと思っていました。また、県立美術館のテーマがアニメに関わるものなど、誰が見に行くのだろうなどと思っていましたが、今日のお話を聴いていて、これまでと違って広い年齢層の人たちが楽しみに出かける美術館をめざしておられるのだということも理解できました。名画を静かに鑑賞するという敷居の高さを打ち破ろうとしておられることがわかり、今後はもっと気楽に出かけていきたいと思いました。


1月25日放送 「脳梗塞をキャッチする」
               大西脳神経外科病院理事長・院長 大西英之

 私は小学生の頃から立ちくらみを発症していましたが、中学校に入学し、ハーモニカクラブに入部した時、その症状がひどくなり、退部した経験があります。きっともやもや病だったのでしょう。中学時代から高校時代にかけて、じっと立っていると不安になったり、夢の中にいるような足が地に着かない気分によくなりました。それ以来、ハーモニカや笛など、呼吸器を使う楽器にはふれないようにしてきました。

 大学時代に脳の中で神経が切れたような感じがして、記憶力が極端に下がったという思いもしました。それ以来、人の名前を覚えるのがすっかり苦手になり、50代の頃にはいつも目の前にいる人の名前が突然思い出せないということも起こり始めました。文章を書いていて漢字が思い出せず、辞書の使えない時には別の言い回しで表現せざるを得ませんでした。

 最近では、数年前から突然強い側頭痛に襲われ、5〜10秒ほど頭を抱えてじっとしていることも時々起こります。またごく最近では前頭葉がきりきりと痛むことがあります。これも一過性なので、気にしないようにしていますが、いよいよ痴呆に向かっているものと思います。

 先日老人クラブの大先輩から、西明石に良い脳神経外科病院が出来たと聞きました。今日の講師の病院は自宅のすぐ近くにあるのですが、患者があふれていて丁寧な話が聞けないという評判で、検診にはあまり乗り気でなかったのですが、西明石の病院は予約制で、検査結果を丁寧に説明してもらえると聞き、一度受診してみようかと思っています。ただ受診結果によっていろいろな活動に制限が加えられるようなら、知らずにぽっくり逝く方がいいかなと思う気持ちもあります。両親の亡くなった年齢をとっくに超えており、おまけの人生だから、今さら寿命を延ばすこともないなどと思っているからです。

 生きておればやりたいことはたくさんありますが、さりとてやりたいことをやり遂げなければ死ねないということもありません。昨年は住民検診で初期の胃ガンが見つかり、内視鏡手術を受けましたが、現在は服用している薬もなく、また住民検診を受けても特に治療しなければならないこともないので、自然体でいることが出来れば最高だと思っています。


1月18日放送 「意識の話」
                東京大学名誉教授 養老孟司

 意識とは起きていて自覚がある時くらいに考えていました。だから眠っている時は意識はないし、物心がない時期も自分にとっては意識はなかったのだと思います。そのことに関して、養老先生は実に難しくいわれたように思いました。
 養老先生は日常生活の中で意識のない時が6回もあったといわれますが、私にはそのような経験はありません。確かに物忘れがひどく、後にそのようなことがあったかなと思うことがありますが、意識がなくなったとは思っていません。だから養老先生の話は今ひとつ理解できなかったというのが正直なところです。

 私は夜中に夢をよく見ます。その内容はいつも決まって現職時代のことで、現在の高齢期の夢は見たことがありません。もちろん実際にあったことではなく、現職の中で自分なりに一生懸命考えて実践しようとしているのです。それも若い時の自分なのです。これが今の意識とどのような関わりがあるのかわかりませんが… 目が覚めて暫くは内容を覚えていて、こうすれば良かったかなと考え直したりするのですが、朝起きるともうすっかり忘れてしまっています。やはり夢は意識のない時の出来事なのでしょうね。


1月11日放送 「学生参加番組『私のたからもの』A」
 丹波の都倉(?)さん、加古川の原さんのお話にあったように『言葉の力』はすごいと思います。また、その言葉を素直に受け取ることの大切さも感じました。自分の心に素直さがなければ、他人の言葉を素直に受け入れることは出来ません。『ありがた迷惑』などと思う人は他人の好意をそのまま受け入れることが出来ないように素直さに欠けるからだろうと思います。佃さんが長年の夢を果たすことが出来たのも娘さんの好意を受けてこそのことだったと思います。

 私達はよく『前向きに考える』『前向きに生きる』といいますが、他人の言葉、与えられた役割を自分に対する生き方や生きがいとして受け取ることであって、そのことに精進することが幸せにつながっていくのだと思いました。


1月4日放送 「知事年頭の挨拶・学生参加番組『私のたからもの』@」
 「安全元気ふるさと兵庫の実現」 兵庫県知事 井戸敏三
 阪神淡路大震災を経験し、いろいろな対策を行ってきたにもかかわらず、昨年の淡路の震災で、改めて課題が見つかりました。さらに南海トラフの地震や津波に対する対策を行って、安全安心なまちづくりが急務になっています。少ない予算の中でこれらにどう取り組むか、知事の手腕を期待したいと思います。

 4人の「私のたからもの」についての発表で、人との絆からうまれた宝物の大切さが浮き彫りになったように思います。他人である幸子さんの献身的な行為、亡くなったおお父様やお母様からいただいた心にしみるたからもの、夫にいただいた給料に対して感謝の気持ちで付けられた家計簿など、素晴らしいお話でした。それぞれ感謝の気持ちで受け取っておられるので、たからものになるのだと思いました。「感謝の心をもてる人がこの世で幸せになれる人」という言葉を改めて感じました。


12月28日放送 「老後安心相談所」
                  弁護士 住田裕子

 高齢になると、いつ死んでも良いように財産等について明確にしておく必要があります。養母は私達と同居していたこともあって、養父が死んだ後自分は財産放棄して、私と妻にすべての財産を相続する手続きを自分でしていました。義妹もなくなっていたので、私達夫婦だけだったこともあり、何のトラブルもありませんでした。そして土地の権利書なども生前から保管場所などを私に伝えていました。そして自分が持っていた土地もガンの治療費としてさっさと売っていました。

 さて、私はと言うと、エンディングノートを買ったまでは良かったのですが、さっぱり記入に至っていません。まだまだどうすればよいか考えがまとまっていないからです。養父から引き継いだ財産は最終的には息子と娘を通じて、娘の子供3人に落ち着くことになると思いますが、彼らがどのような成人になっていくのか、まだまだ見当もつきません。お寺にある先祖からのお墓の問題などを考えると、栃木県で生まれ育った彼らに引き継げば、無縁墓になると思います。そのような先のことを考えると、エンディングノートを書くのも億劫になってしまいました。喧嘩をすることはないと思っているので、処理は当事者で考えればいいかなと思ったりもしています。


12月21日放送 「老いは20代から」
                  作家 三浦朱門

 肉体的な老いは20歳代からとはなされましたが、私が脳の神経が切れた感じがしたのは20歳代前半でした。突然一つのことが思い出せなくなったのです。記憶力の衰えはそのときからで、人の名前がさっぱり覚えられず、そのことは仕事上致命的に思いました。

 そして50歳代になって、目の前にいる人の名前が突然思い出せなくなったり、漢字が思い出せなくて違った表現でごまかしていたという経験があります。肉体的にもぎっくり腰になったり、関節が痛んだり、眼底出血を患ったりといろいろ故障が出てきました。しかし、66歳から四国歩き遍路に参加するようになって足腰が丈夫になりました。それもで結願し、さらに今年4月に胃ガンの内視鏡手術をした後、あまり歩くことがなくなると、足腰がすっかり衰えてきたように思います。少しバランスを崩すと、身体が持ちこたえられなくて転んでしまうのです。このように肉体的な老いは認めざるをえません。

 しかし、生きがいという点では充実した日々を送っているように思います。それも若い時よりも自分自身が生きているという感じです。地域の人々との暮らしを中心に、また、思わぬところからの要請があって、自分の持っている能力を生かしてもらえたりと、いつも不要物の扱いをされていないことを有り難く思っています。このような日々がいつまで続くかわかりませんが、感謝しながら今後も私の出来ることで少しでも貢献できるよう生きていきたいと思います。


12月14日放送 「中央・地方スクーリングより」
                       学生参加番組

 豊岡市の田中さんが発表されていたように、人生を3段階に大きく分けることが出来ます。私の場合は第1段階は親に育てられ、自分の生きる道を見つけた時代でした。そして、第2段階は自分の所属する家族や職場、社会の要請に応じて、規範通りの生き方をしていました。そして第3段階は自分の時間を自分の思いにしたがって生きているように思います。今回発表された皆さんは、それぞれにこの第3段階の生き方や心がけを発表されていたと思います。

 この第3段階をいかに生きるか、どのようなこころを育てるかがその人の人生への満足度にかかっているのではないかと思いました。その意味で私の場合、退職後歩き遍路に出かけたことが本当に良かったと思います。感謝のこころの大切さを学び、同時にプライドが感謝のこころの邪魔になること、そして誠意と素直なこころがけこそが他の人と接する上で日常生活に欠かせないことだという思いを持たせてくれました。お節介とか、ありがた迷惑ということを思う間は修行が足りないのだと思います。すべて相手の思いを謙虚に受ければ、自然に感謝の気持ちがこみ上げ、幸せな人生になると思っています。



12月7日放送 「支えあう社会を奏でたい」
                   歌手・NPO法人国境なき楽団代表理事 庄野真代

 若い時に歌手として売れておれば、全く違う道において冒険しようという人は少ないだろうと思います。しかし、庄野さんは外国へ行き、ボランティアの道に進まれたのですから勇気ある人だなと思います。ただ、自分の得意の音楽を生かす道を見つけられたのですから、それなりの生き方だったと思います。

 庄野さんはボランティアについて自分の出来る時に自分の出来ることをすればよいと話されました。また、ひとりでは出来なくても、人が集まるとそれぞれの出来ることで力を合わせれば出来ることがあるとも話されました。この二つはボランティアの基本だろうと思います。私が行っている小学生の下校の見守りも、自分が出来る日だけしています。
 また、いきいきふれあい交流会というボランティアの集まりに参加しています。ここでもメンバーを6班にわけ、各班のメンバーが協力してみんなの活動を計画して実施します。12月は我々6班の当番で、川柳の互選をするように言われました。私が川柳を習っているので、私が進行することになったのですが、書道の得意な方が短冊を書くなど、それぞれの特技で3月の展示もスムーズに進みそうです。毎月1回の集まりでも他の班がそれぞれのメンバーの得意分野を発揮していろいろボランティアに役立つ活動を教えてくださっています。


11月30日放送 「大震災に思う」
            (公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構 特別顧問 貝原俊民

 大災害が人々の意識を変えることは確かにあります。私達阪神淡路大震災を経験したものは、どのように大切にしていても、ものは壊れてしまうということでした。震源地の近くであっても、私達の住む明石市は明石川を境に東西で被害の大きさの違いは歴然としていました。わが家も明石川の西側だったので、屋根や壁の被害はあっても家の骨組みは持ちこたえました。以後家具や食器など、高価なものは購入しなくなりました。

 リスボンのように、街全体に被害を受けると、住居や都市のあり方すら意識を変えてしまうのですね。その後日本でも度々災害が起こると、その反省の上に、自然災害に耐える方法を考えてきました。そのような科学的な方法を駆使して、スカイツリーのような建造物を震災国の首都・東京に建てました。本当に大丈夫なのだろうかという疑問は、東日本における原発災害に思うのです。科学者も政治家も、そして当の電力会社も自信を持って建設したはずの原発の終焉の姿です。結果は人々の住めない地域になってしまいました。そして福島県を中心とした人々の内心に健康不安をもたらしています。

 災害は人々の意識を変えるといわれましたが、小泉元首相が今こそ原発ゼロへ政策方針転換し、世界中に訴えなければならないと言っています。そして人間は考えが変わると言っている彼の言葉に納得がいきます。しかし、阿部首相は原発を外国に売り込む方針を変えようとはせず、かえって政府方針に異を唱える小泉元首相に対して処分すら考えているようです。彼のかたくなな姿勢は歴史上どのような結果をもたらすのか、子孫が評価することでしょう。

 以前、日本人の無常観、水に流して許し合い、無から出直す人生観は自然災害がその根幹にあると聞きました。しかし、現在生きている人々だけでなく後世にも影響を及ぼすような科学についてはもっと慎重でなければならないと思います。軍隊は相手にダメージを与えることの効果のみを考えます。その結果、原子力兵器にとどまらず化学兵器や地雷のような後世の子孫に影響を及ぼす兵器を開発し、使用してきました。敵味方を考えず、後世の命を大切に考えるなら、戦争だけでなく、科学の発達を地球上の生命に及ぼす影響を検証しながら進めることが大切だと思います。特に自然災害国日本を基盤に考えることが日本では必須だと思いました。


11月23日放送 「書写山圓教寺の世界」
                 書写山圓教寺執事長 大樹玄承

 世の中が大きく変わる時には、古くから伝えられたものが破壊されたり、軽視されることが多いと思います。信長が新たに勢力を日本中に及ぼすため、古い時代から続いてきた仏教や僧をなき者にしようと多くの寺を焼き討ちにしたり、明治維新では廃仏毀釈が行われ、多くの寺にあった文化財が焼き捨てられ、ごく最近では、大阪の橋下市長が長い伝統を持つ文楽に対する態度など、一度失えば復活が難しいと思えることが多く行われてきました。大樹氏が話されたように、明治維新の廃仏毀釈時に存続できただけでもありがたいということばは印象に残りました。

 四国88番札所を歩き遍路しましたが、その中でも札所が廃仏毀釈によって一時無くなった話も聞きました。また、寺領をほとんど失い本当に小さなお寺になっている札所もありました。それでも最近の遍路ブームで、鉄筋で立派に立て替えられているところもあり、このようなお寺に出くわすと、昔の伝統を感じられず、復元されたとは思えずかえってがっかりしたりします。せっかく復興させるなら、伝統を感じさせるものであってほしいと思うのは私だけではないと思います。

 私はこれまで何度も書写山圓教寺へお参りしています。最近は歩いて登ることが多いようです。苦労して歩いて登るとありがたみがいっそう増します。そして圓教寺の立派な本堂が目にはいるといつも感動を覚えます。いつも大勢の参拝客でにぎわっていますが、裏手の建物の方へ進んでいくと人影もまばらで、静寂を取り戻すことが出来ます。お寺で静寂な境内を歩き、お参りするのが最高です。このような癒しの場を作ってくださる大樹氏のようなお寺に関わる方がおられるお陰だと感謝しなければならないと思いました。


11月16日放送 「百年の手紙 −日本人の遺したことば−」
                   ノンフィクション作家 梯 久美子

 昭和天皇や皇后陛下が皇太子に当てた終戦直後の手紙は非常に重みがあると思います。軍人の幹部が科学を忘れ、精神主義だけで挑んだ事実をきちんと見抜き、国民を大切に考えれば戦争を終結させるのがベストだと判断された決意がよく理解できます。今、日本が隣国との関係が悪化している中で、国益を守るという名の下に一歩も引かない姿勢を貫こうとしている政府の幹部たちに、本当に国民の気持ちや相手国の人々の気持ちをくみ取ろうとするこころの余裕があるのか心配になります。

 知覧の特攻隊員が家族に当てた手紙を記念館で読んだことがあります。我々でも書けないような立派な手紙を、二十歳にもならない特効兵が軍部の検閲に通るよう精一杯自分の気持ちを抑えて書いているのがよくわかりました。妹や弟に両親のことを頼むと書かれている手紙は涙なしには読めませんでした。

 このようなことを考えていると、どのようなことがあっても戦争だけは避け、根気よく対話の姿勢をとり続けていかなければと思います。そのためにも国民一人ひとりが普段からいろいろな場で誠意を示し、信頼される日本の国にしなければならないと思います。そして、信頼できる政治家を選びたいものです。

 この作家の著書をいろいろ読んでみたいと思いました。


11月9日放送 「歌はどこでうまれるか」
                 精神科医・作詞家 きたやまおさむ

 私もまどろみの時間が大好きです。夢を見ていて、目が覚めたと思っても、夢の続きをいろいろ考えています。しかし、布団から出て着替えをしている頃にはもう何を考えていたか定かではありません。また、夜中にトイレに起きた後、しばらくうとうとしている時間帯があります。こんな時もいろいろなことを思いめぐらしています。川柳の兼題を考えていたり、やがてしなければならない役割や企画などについて、アイデアがそれとなく思い浮かんできます。しかし、朝起きて、何か良い句やアイディアが浮かんだと思うのに、どんなことだったか思い出せないこともよくあります。そんなときはとても残念に思います。北山氏がまどろみの中でいい歌が創作できるというお話はよくわかります。

 確かに現役の頃は朝目覚ましで飛び起きていたので、まどろんでいるヒマはありませんでした。夜中にトイレに行くこともなく、布団の中でものを考えるということもなかったように思います。夜12時半に床につくと直ぐに眠り、6時半に目覚ましが鳴ると同時に飛び起きるという生活の毎日でした。ただ、日曜日だけが多少まどろみの時間があったかもしれませんが、目覚まし時計が鳴らないというだけだったようでもあり、何か考えていたという記憶はありません。きっとゆとりのない生活の繰り返しだったのでしょうね。


11月2日放送 「嫉妬について」
                 精神科医・作詞家 きたやまおさむ

 クルセダースの「帰ってきた酔っぱらい」を初めて聞いた時、歌詞も歌い方もなんと変わった歌を歌うグループなんだろうと思いました。その北山修氏が精神科医ということも知りませんでした。そして淡路の出身者だということにも驚きました。

 私はもののない時代に育ち、常に兄や姉にはかなわないと思っていたので、兄弟に対しては嫉妬よりあこがれの方が強かったように思います。実際、学歴も兄や弟の方が立派だし、会社における地位も若い頃からそれなりの位置を占めていました。ただ幸いだったのが、私は兄弟とは全く異なった職種にいたので、兄弟に対して姑息になる必要はありませんでした。彼らはそれなりの収入も得ており、ゴルフなども楽しんでいたようですが、私は公務員として決められた収入で質素に暮らす生活に満足していました。

 職場では与えられた仕事に対してひたすら誠実に生きることのみを考えていたように思います。自分に人より実力があるとは考えていなかったので、まわりの動向にはあまり関心が無く、ライバル意識もありませんでした。

 そのような性格だからか、竹島や尖閣列島、北方四島についても韓国、中国、ロシアと仲良くするにはどうすればよいかをまず考えてしまします。一番良いのは固有ではなく共有して、お互いが納得できるように自由特区にすればいいなどと思ってしまうのです。このように嫉妬心に疎いので、他人から嫉妬されていることも気づかないで過ごしているようです。本当はいろいろなところで陰口を言われたり、足を引っ張られているのかもしれませんね。


10月26日放送 「お家さん−世界を信頼させた鈴木商店のこころ−」
                     作家 玉岡かおる

 神戸が貿易港としてトップクラスの地位を築き上げたのには鈴木商店の力が大きいと思います。主人も立派な商いをしたと思いますが、鈴木よねの心が大番頭を通じて発展させた大きな力になっていたことでしょう。よねのこころとは、私腹を肥やすのではなく、誠実に生きること、さらには人々の暮らしをよくすることにあったと思います。そのよねのこころと金子直吉の広い視野とが結びついて大きな業績になっていったと思います。

 私の祖父や父が神戸大丸の近く、三宮神社あたりで段通などを扱う店をしていましたが、やはり輸出入に関わっていたと聞きます。残念ながら私が物心ついた頃には第2次大戦が始まり、貿易どころか、最終的には空襲で店は倉庫や本宅と共に焼けてしまい、商売どころではなくなりましたが、きっと直接、間接的に鈴木商店の恩恵を受けていたに違いありません。だから父を見ていても誠意だけは誰にも負けないような生き方でしたが、戦後のどさくさの中でそうした人の良い誠意は生かされることがなく、三宮の本宅の土地と共に、露と消えてしまいました。

 今の世の中を見ていても、詐欺まがいの商売や、会社経営が横行しているように思います。だから、経営者は不正が発覚し頭を下げていても、誠意が感じられないことが多く、直ぐに正当化への言い訳が飛び出します。私自身は地位やプライドに対するこだわりを捨てた今、少なくとも誠意を大切に周りの人々と共に幸せに暮らせるような生き方をしていきたいと思います。


10月19日放送 「子供と作る俳句」
                     俳人 坪内稔典

 子供が片言で話す不完全な言葉をまわりがくみ取って理解し、その表現をかわいいと思うのは私も同じです。理論的でなくても、その発想と独創的な表現は許されるのですね。けれども「タンポポのポポのあたりが火事ですよ」などと大人が詠むと首をかしげてしまいます。

 名前を伏せて良い句を選ぶという互選の方法は私達の川柳の句会でも常に行っていて大いに盛り上がります。そんなとき子供のような片言の句がよく選ばれます。「トマトさん私の電話教えるね」と紹介された子供の俳句のように、動物や植物、自然現象などを擬人化して詠むのです。これらは理論的ではありませんが、人々の心をしっかりとらえます。

 俳句の句会では「サツマイモ」のように季語がお題になるのだろうと思います。しかし、川柳では「気」や「歩く」など季語とは全く関係のない兼題が出されます。季節に関係がないので、句の広がりが無限になり、さらに独創的な句が詠まれ、句会が大いに盛り上がります。そして、他の人の句を読んで、その発想に感心し、とても勉強になります。そのためには、15〜30人くらいの句会が最もふさわしいと思います。

 孫が小学校5年生の時、広島の原爆ドームで学習させてやろうと、青春切符で出かけました。帰りの列車で退屈しないように、妻と3人で川柳を詠みました。妻は原爆ドームの前で笑顔で記念撮影をする若者の様子を詠みました。そして5年生の孫も何の抵抗もなく直ぐに句を詠みました。内容は忘れてしまいましたが、子供が見た原爆記念館の印象を詠んでいたように思います。そのとき、子供は言葉を素直に表現できることに感心したものです。けれども私の川柳の先生は大学で講師もしておられますが、人生経験豊富な高齢者が最も深い意味の句が詠めるといつも言われます。これからも片言も使って楽しく詠み続けたいと思います。


10月12日放送 「自分を抱きしめてあげたい日に」
                           作家 落合惠子

 自分を抱きしめたりほめてやりたいと思ったことはあまりありません。きっとこれからもないでしょう。自分は大したことは出来ないし、やろうとする野望も持っていません。むしろ劣等感の方が強いので、人の足を引っ張ったり、迷惑をかけず、少しでもお役に立つことがあれば、自分の精一杯の気持で努めることが大切だと思っています。

 ところで、落合氏が取り上げられた詩や言葉の数々はもう一つピンと来ることもなく、、感動や共感することもありませんでした。私自身にとって大切な言葉は感謝「ありがとう」だと思っています。人から笑顔を添えて感謝の言葉を述べられると、自分自身はとても幸せに感じます。だから他人に対しても同じようにしようと思っています。人を元気づける言葉など、私には言えないし、そのようながらではないと思っています。震災の時も、寄付をしたり、東北の人々が生産した物を買うくらいのことでした。言葉ではなく行動を重んじる方なのかもしれません。そして自分に関わることには感謝の気持ちを言葉と笑顔で表すことをこれからも大切にしようと思っています。


10月5日放送 「母に歌う子守唄」
                    作家 落合惠子

 高齢者に限らず、人はそれぞれの生きている位置が必要だと思います。講師が母親を亡くした時、母を介護していたと思っていたが、実は自分が母によって生かされていたという思いはよく理解できます。

 今、地域の老人クラブで役員としてお世話させてもらっていますが、これもお世話をしているのではなくて、私に老人クラブにおける位置を与えてもらっているのであり、生きがいを持たせてもらっているのだと思います。よく、役員をやらされるから老人クラブには入会しないという人がいますが、より自分の位置が豊かになり、元気老人の間生きがいづくりの場が多くなると考えれば、そのような理由で入会しない人はみすみす自分を淋しくしているのだと思います。

 シワもシミもその人の生きてきた足跡です。朗らかに過ごしてきた人のシワは笑いシワだし、不機嫌で怒ってばかりいた人は怖い顔のシワになり、泣き言や不満をよく口にした人の顔は泣き顔のシワになります。年老いて見た目も優しそうな顔だといわれたいと思っても、もうシワが固定してしまっては後の祭りです。せめて今からでも態度だけは優しさ、誠意が前面に出せるような生き方をしていきたいと思います。


9月28日放送 「思い出のメロディー」
「こんにちは赤ちゃん」
 この歌が流行したのは、娘が生まれた年ででした。娘が「アー、ウー」と声を出すようになったので、その声をテープに録音しようとマイクを突きつけていたら、泣き出してしまいました。その泣き声を再生してみると、テープにはテレビのこの歌がバックに流れていました。当時はオープンデッキだったので、今は再生することが出来ませんが、探せばそのテープがどこかにしまい込まれているだろうと思います。

「夏の日の恋」
 この曲名は知りませんでしたが、この曲がなり始めた時、思い切って買った大型のステレオ装置を思い出しました。当時、FM放送が始まり、「イージー・リスニング・ミュージック」という番組が放送されていました。そのテーマ音楽が確かこの曲だったように思います。クラシックをはじめいろんなジャンルの曲を親しみやすく演奏するのですが、テープに録音して、マイカーで通勤やドライブの時によく聞いていました。そのときにマントヴァーニオーケストラや、ポールモーリア楽団などのファンになり、後日CDを見つけるとよく買い込みました。大型ステレオの本体は廃棄しましたが、二つのスピーカーボックスは今はもの入れとなり、その内の一つは最近買ったカラオケの機械のケースとして使っています。


9月21日放送 「兵庫偉人伝ー黒田官兵衛と妻・光姫ー」
                                         
講談師 旭堂南海
 本屋をのぞいても黒田官兵衛に関する本が何冊も並んでいます。そして9月25日には、生で旭堂南海師の講談「黒田官兵衛」を聞くことになっています。今日と同じ話かもっと詳しい話になるのか楽しみにしています。実は姫路で同じ時刻に黒田官兵衛の講座が開かれることになっており、どちらに行こうかと迷いました。

 光姫のことについてはこの度初めて聞きました。官兵衛にはこのような内助の功があったとは驚きました。武士の家に生まれた女性も武士に劣らないほどの気力を持主だったのだとわかりました。そういえば篤姫も夫である将軍が亡くなったあともずいぶん気丈に活躍しています。さすがだなと思います。大河ドラマではどのような展開になるのか楽しみです。


9月14日放送 「第二の人生、勝負の時である」
              弁護士・さわやか福祉財団理事長 堀田 力

 いなみ野学園の地域活動指導者養成講座に勤めていた時、退職して家でごろごろしていたら妻に追い出されたといって入学してきた人や、何か社会に貢献したいけれども何が出来るかわからない、学園に行けば何か見つかるだろうと入学して来る人が結構いました。前者の中には挫折に近い状況の人もいましたが、特に福祉系を希望する人は穏やかな性格で、自分が大将になって取り仕切ろうというような野心がなかったので、卒業後も地味ではあっても生きがいを持って頑張っておられるように思います。

 実は、私自身もこの第二の仕事で第二の人生の生きる方向や生きがいを見つけさせてもらいました。特に仕事一筋の現役時代では、仕事の専門性以外のところでは何も見えていませんでした。だから、第二の人生も専門の分野に関わっていきたいと思ってました。ところがいなみ野学園長や副理事長に誘ってもらって、飛び込んだ世界は新鮮で感動でした。学生の皆さんが活動しようとされることや、生きがいを見つけられることへのお手伝いをしながら、広くたくさんのことを学ばせていただきました。

 第二の職場の退職後について、妻は心配だったらしく、歴史講座や川柳講座などをすすめてくれました。私は畑仕事をしながらそれらの講座に参加していました。仕事塾の園芸講座は県が生きがいづくりを見いだすために開かれていたことを受講中に知り、一緒に受講した人達にグループの立ち上げを提案し、そのグループが順調に活動し始めると、退職後の生きがいづくりに対して自信が深まりました。そして誘ってもらった地域の老人クラブでやっと地域デビューを果たすことも出来ました。そのとき強く思ったことは、声をかけられた時には素直な気持ちで受け入れること、決して自分の過去のプライドにこだわってはいけないということでした。そのような気持ちの時に、高齢者放送大学から誘いを受けて7年間、学び続けることの大切さを教えられました。一方で、お金をもらえば意に反していても従わなければならないということも学びました。

 今、グループや地域での活動の世話係がいくつかありますが、私に生きがいを与えてくださっているのだと素直に受け止め、自分の出来る範囲で精一杯努めさせてもらっています。


9月7日放送 「歴史の中の大地動乱」
                  東京大学名誉教授 保立道久

 先日来、山崎断層による地震について、新聞に連載されていたことを思い出しました。しかし、見出しだけを見ていて、特に内容まで読むことはありませんでした。今日のお話を聴き、もっと詳しく読んでおくべきだったと後悔しています。

 神戸の平野に祇園神社があることは昔から知っており、一昨年、勝海舟の住まいを見学に出かけた時にも寄りました。しかし、平清盛との関係については考えもしませんでした。祇園神社が地震の神を祭り、さらにその神が広峰神社から京都に鎮座したと言うことに驚きを感じると共に、歴史学は地味ではあるけれども、私達にいろいろなことを発見させてくれることにも感心させられました。

 地震一つ取り上げても、歴史学者、地質学者、そして現代のコンピューターで解析する先端の科学者や物理学者など、多くの人が集まって共同で研究することによって初めてより正確な予知が出来ることも知りました。よく異業種の人々が集まって新しい視点からものを開発する話は聞きますが、学問の研究においても、このような共同研究が今後もいろいろな分野ですすめられていくのだと思います。政治においても縄張り争いにこだわらず、いろいろな専門家が共同して、より住みよい国、世界にしていくべきなのだと教えられたようにも思いました。


8月31日放送 「エンディングノートのすすめ」
               遺言相続コンサルタント 本田桂子

 昨年の夏に「エンディングノートのすすめ」を読んで関心が高まり、2月に今回の講師に著書「エンディングノート」を買いました。パソコン内に下書きのつもりで自分史の欄を書き始めた時、胃ガンの宣告を受け、あまりのタイミングに気分的に書けなくなってしまいました。このまま胃ガンで命を落とすので、その準備をしているように思えたからです。

 4月に手術を終え、続きを書きかけましたが、集中して書くことが出来ず、最近は全く手を付けていません。書きかけて思ったことは、私が死んだ時、葬儀のことなどあわただしくて、パソコンの中身を確認することはないだろうと思いました。だから、、下書きが出来ればやはりノートそのものに書いて、妻や子供たちにその置き場所を普段から知らせておかねばならないと思いました。ただ、相続のことなど前もってあまり他の人に知られたくないことについては、別冊がついているのでそのノートに書いて金庫の重要書類などと一緒に置いておくのがよいだろうと思いました。

 また、死亡の連絡をしなければならないところ、例えば年金の支給先や過去の最終勤務先など、手続きの必要なところはきちんと明記しておく必要があります。そのようなことは、車を運転する私にとって、突然死があり得ることなので、確実に伝えられるようしっかり記入しておく必要があると改めて思いました。ただ葬儀や医療については、自分の希望を書けば、かえって家族に迷惑をかけると思うので、最小限にとどめ、後は家族の判断にまかせなければならないと思っています。また自分史については、大したことをしていない私にとってはあまり重要ではないと思いました。そのようなことを考えながら、認知症の進行が心配な現状の中、急いでしなければならないことから手を付けていこうと思いました。


8月24日放送 「笑いは健康のもと」
                  落語家 露の吉次

 年に3回、明石の高家寺で露の団六が開く高家寺寄席があります。1000円の木戸銭で2時間ほどの間に4人の落語を聞くことが出来ます。テレビと違って、会場にいるみんなで大笑いする雰囲気が大好きです。時々小咄の落ちが一部のひとにしか理解されない時には、落ちの説明があったりしますが、落語家と聴衆が一体になっていることがよくわかります。会場が大笑いするほど、落語家も調子が上がっていきます。音楽のコンサートで無理矢理手拍子をさせられるのとは違って心から笑い、拍手を送ることが出来ます。

 ところで、同じ笑いでも、漫才と違って落語家の話には引き込まれ、その情景を無意識に想像しています。脳の活性化に良いだけでなく、健康にも良いことがわかります。関東の早口のリズムを大切にする落語と違って、上方はその人それぞれのリズムと間を上手に取りながらしゃべる落語は4人続けて聞いていても全く違和感もなく、心から楽しめます。これからも上方落語を楽しみたいと思います。


8月17日放送 「兵庫 街かど学[−『風土記』1300年−」
               園田学園女子大学名誉教授 田辺眞人

 少し前に福崎の柳田国男記念館へ行った時、風土記1300年記念の展示が行われていました。また月1回姫路の県立歴史博物館で開かれている歴史教室でも、埴岡先生が播磨風土記を引用してお話しされます。しかし、それらは記述されていることの解説として受け取っていて、風土記の成立については意識したことはあまりありませんでした。もちろん播磨風土記は現存する数少ない風土記の一つだということは度々聞いていましたが、これほど貴重なものだという意識もありませんでした。

 過去の出来事や地域の歴史について話を聞く時に断片的に知ることはあっても、播磨風土記としてまとめて聞くこともありません。また、話を聞いている時に、具体的な場所について現存している遺跡についても話を聞くのですが、そのときは行ってみたいと思うのですが、実現することなく忘れ去っています。学んだ時に直ぐに現場へ行けば、もっと楽しく学べ、記憶に残るだろうと思いました。原文は解説なしには理解できませんが、現代語訳され、具体的な遺跡も書かれた播磨風土記解説書(物語)があれば現地で読んでみたいなと思いました。


8月10日放送 「施して心豊かに」
           大本山須磨寺貫首 小池弘三

 小学生の下校を見守るスクールガードに参加しています。信号のある交差点で、信号が青の時は「さようなら」と声をかけ、赤の時は「お帰り」といって信号待ちをさせます。そのときに出来るだけ笑顔で言うように努めています。子供によっては笑顔であいさつを返してきたり、親しげな態度で甘えてくる子供もいます。しかし、中には友達との会話に夢中で、反応のない子もいます。そのような子には初めのうちはむなしさを感じたこともありました。和顔施や言辞施に対して見返りを求めていたのだと思います。あいさつを返してくれる子供たちに感謝の気持ちを持つこと、スクールガードに参加させてもらえることそのことを感謝しなければならないのですね。

 食事の前には必ず「ありがとう いただきます」といってから食べます。しかし、毎食言っていると、妻には感謝の心が通じていないようです。マニュアル通りに話す店員のように、きっと口癖になって心がこもっていないからでしょうね。一口食べて「この○○美味しいね」などと心を込めなければ意味がないことだと思いました。

 老人クラブやグループ活動などで、人の役に立つことは豊かな心にしてもらえます。そういえば、家事を手伝うこともしなければならないと負担に思うのではなく、先々週に坪田先生が話されたように、役に立っている、、自分の健康づくりのためにさせてもらっていると前向きや感謝の気持ちで取り組めば心豊かになるということを改めて教えられました。


8月3日放送 「健康寿命を延ばす食事」
           医学博士・管理栄養士 本多京子

 自分の健康にはある程度自信を持っていました。ところが、2月に胃ガンの診断を受けて、その自信が少し揺らぎました。幸い内視鏡によって処置を終え、元の身体にもどりましたが、梅雨明けの頃からの疲労感など今までにあまり経験がないほどの倦怠感に襲われました。そして連日の暑さに屋内の生活が増え、パソコンをしている途中やテレビを見ながら睡魔に襲われるなど、痴呆への道をまっしぐらという生活に陥っています。こんな生活をしていると、夜の睡眠の質が悪くなったように思います。唯一第九合唱団の練習に出かけて、お腹の底から声を出した後はさわやかな気分になるのですから、運動不足と緊張感の欠如が原因なのだと思います。このような生活をしていると健康寿命は保証されないでしょうね。

 食生活においては、妻の手料理のお陰でかなり理想的だなと講義を聴きながら思いました。夏の緑の野菜については庭の菜園で昨年からツルムラサキを栽培して食していますが、このように健康寿命を維持する上で良いといわれると嬉しくなります。先日のグループの例会で落ちばえの苗を皆さんに配りましたが、これは正解だったのですね。

 昨年度の講義で、ミネラルの中でも亜鉛とマグネシウムが大切だと聞き、その両方を含んだサプリメントを買いました。しかし粒が大きくて喉に引っかかる感じがしてあまり飲んでいませんでした。しかし、今日のお話を聴いてやはり飲まなくてはと思っています。そして、なんとかこの暑さを乗り切って健康寿命を維持したいと思いました。


7月27日放送 「ごきげんな人は10年長生きできる」
                 慶應義塾大学医学部眼科教授 坪田一男

 ごきげんに生きるための条件がいくつかある中で、外に出かけて人々と楽しく毎日を送る機会には恵まれていると思います。高齢になるほど行動範囲が狭くなり、最終的には近隣の人々とどれほど楽しく生活できるかということになると思います。いなみ野学園に勤務させて頂いたお陰で、そのことを学ぶことが出来ました。それまで地域の人々とはほとんど接することはありませんでしたが、勇気を出して老人クラブに参加したことによって、今では一緒にグラウンドゴルフをしたり、カラオケを一緒に楽しんだり、役員をすることで仲間に認められていると感じ、生きがいをいただいています。しかし、それ以上の運動をしていないこと、特に夏休みはグラウンドゴルフも休止しているので、家でぶらぶらする時間が多くなってしがちです。

 また地域デビューしたお陰で小学生の下校の見守りなど、地域の子供たちと接する機会もあります。普段の生活であいさつされることもありますし、卒業生が話しかけてくることもあります。やはり外に出ることが大切なのですね。

 夏は庭の花々や菜園の野菜の水やりが大変です。大きめのじょうろに水をいっぱい入れて庭中を歩き回るのですが、これがホテルの掃除やベットメイキングのように運動になるのだと意識することが大切なのですね。それだけで休止しているグラウンドゴルフくらいの値打ちがありそうです。

 放送大学の講師は辞めましたが、これまでの積極的な生き方が、いろいろな場に誘われて広がっていくことも実感しています。それらを損得勘定ではなく前向きにとらえて楽しむことが大切だと思いました。


7月20日放送 「疲れやすいが治る本」
                    医師 鴨下一郎

 最近疲れというより、倦怠感を感じることが多くなりました。特に梅雨時あたりからその傾向を強く感じます。朝起きあがる時にそのことを強く感じ、布団の中にいるとまたうとうとするなど、ますますその傾向が強くなります。4月に入院して以来、病院のベットで一日に何度かうとうとする習慣がついた頃から、睡眠の質も悪くなっています。そして自分でもぼけはじめたなと思うようなうっかりが日常生活の中でしばしば起こることも事実です。

 そのことは自分で感じるだけでなく、妻にも指摘されます。妻は高齢者放送大学の仕事を辞めたために緊張感をなくしているのだといいます。確かに生活のリズムが乱れていることは確かです。一方で、社会参加という意味では、老人クラブの活動は定期的にあり、それ以外にも、グループ活動や第九合唱団の練習、川柳教室などに参加しています。けれどもこれらに対する緊張感やプレッシャーを感じなくなってきているのも事実です。これで当座は大丈夫と思ってしまうのです。

 活動のない日は、万歩計が2000歩に満たないことがあります。活動もせず適当に過ごすのではなく、日々の生活を見直して、一日の生活リズムを取り戻すことが大切だと今日の講座を聴きながら思いました。


7月13日放送 「戦争を知らない子供たちへ」
                    歌手 杉田二郎

 最初に「戦争を知らない子供たち」を聞いた時、何か生意気な印象を受けました。実際には内容をそれほど深く聞き取っていなかったことと、当時フォークソングそのものを快く受け入れない気持があったからでした。

 今日、杉田二郎氏のお話の中で、戦争を二度と起こさせない、子供たちを戦争に巻き込まない平和を守り抜きたいという気持を聞き、本当にその通りだと思いました。特に戦争も辞さない、そのための力強い軍隊を復活させるための憲法改正ともとれる憲法改正論を聞くと、児童合唱団と一緒に歌っている杉田氏のこの歌を大切にしていきたいと思いました。

 今日の「世界不思議発見」の番組で、サンフランシスコ講和会議で、スリランカの外相(後の初代大統領)が「憎しみは憎しみでは消えない。憎しみは愛情で消える」という仏教の教えを主張して、日本の分断を図ろうとした各国の主張から日本を救ったという話を聞き、「力でもってことを解決することは出来ない。戦争はますます対立を深めるだけだ」といわれた日野原医師の話を思い出しました。宗教(仏教)はお互いを大切にするという精神を貫いた初代スリランカの大統領の言葉を大切にしたいと思います。


7月6日放送 「60歳からはじめる寝たきりにならない筋力づくり」
                        医療法人健身会理事長 周東 寛

 筋肉の重要性を単に転びにくい筋力づくりくらいに考えていましたが、実は血流を良くし、身体の各部分の機能を高める上で大切であること、そして最終的には身体を作っている細胞を活性化することの大切さに至るまで、すべてにおいて筋力の大切さがわかりました。

 それでは自分はどれほど筋力づくりに取り組んでいるのかというと、6月〜12月の週1回、第九合唱団で2時間腹式呼吸で歌い、週2回グラウンドゴルフをする前に1〜2分ストレッチをする程度です。もっと本気でストレッチをし、筋力づくりをしなければならないと思いました。

 もう30年も前から猫背を指摘されています。デスクワークの仕事が多くなったことと、家でパソコンを使うようになったからです。背筋を伸ばそうとすると、意識しなければなりません。もっと無意識に背筋が伸びるように、筋力を作らねばならないこともわかりました。朝、昼、夜、そして寝る前のストレッチと血圧の管理をもう一度考え直してみなければなりません。ストレッチもこれまでスポーツ関係者の指導で得た方法でやっていましたが、周東先生がいわれた医師の立場からの方法を学んでみたいと思います。


6月29日放送 「太平洋ひとりぼっち」
                海洋冒険家 堀江謙一

 世界的なヨットマンである冒険家・堀江謙一氏とはどんな人柄なのだろうと思っていましたが、ヨットを始めた経緯など聞いていると、実に単純で少々意外に思いました。そして外洋の恐ろしさも外国の知識もそれほど持たずに、若くして太平洋を横断するという夢の実現に対して、家族や先輩たちの24歳という若者に対する支援にも驚かされました。

 大きな夢を達成する過程のすばらしさに対して実現後の空虚さも、あまりにも大きな夢だっただけに、若者として当然だったと思います。そして、その後の冒険の数々は冒険家として当然意欲を起こさせるものだったと思います。そして今75歳になって、未だに夢を持って挑戦するという姿勢は、同年代としてすごいことだと思いました。私のようにガンという病気を経験すると、自分のこれからの可能性に少し自信をなくし、大きな挑戦への意欲を失いつつありますが、健康維持や精神的な充実のためにも、今少し夢を大きくしなければと思いました。


6月22日放送 「こころがホッとする考え方」
               東京カウンセリングセンター所長 すがのたいぞう

 女性が人間関係を大切にするということはいろいろな場面で感じます。女性グループの様子を見ていると、常に話し手でありたいと思っていて、脈絡なしに話し続けている人、逆にいつも聞き手で、相づちを打っている人がいます。ところが、話し手でありたいと思う人が複数いると、話し手のちょっとした言葉をとらえて自分の話題に切り替えてしまう人がいます。このようにして、女性はストレスを解消しているのですね。だから仲間と出会うことはおしゃべりをすることだという感じです。先日、大阪市立美術館へ行った時も、人の流れが滞っているところで、よく見ると、二人の女性が立ち止まって展覧会に関係ない話を夢中でしゃべっていたのでした。バスツアーに出かけても、後ろにそのような女性グループがいると、景色も見ずにたわいない会話に夢中になっていて、ガイドの案内を集中して聞けないということがよくあります。多分、周りの人たちへの配慮より自分たちの人間関係を優先するのでしょうね。中に冷静な人がいると、その人を煙たく思うのかグループが分裂してしまうようです。

 一方男性はと言うと、孤独であってもそれはそれでかまわないという人がいますし、気の合う仲間のところへしか出て行かないという人が結構います。あるいは、講座のように、自分が主役にならなくても社会参加の場があればそれでよいと思っています。そこで仲間を見つけておしゃべりしようなどとはさらさら考えていません。むしろ煩わしいことには関わりたくないと思っているようです。だから女性のようにおしゃべりのために出かけるのではなく、何か行動(作業や遊び)が伴うことに対して参加しているように思います。そして何らかの成果が自分なりに感じられるところへしか出かけないように思います。

 戦争で悲惨な思いをしている私達、特に戦中戦後に都会にいた人たちは、本当に最低限の生活をしました。だから、何が起こってもそのときの記憶と比べてつらいと思うことがありません。その分ストレスが少ないのだろうと思います。きっと欲求水準が低くてプラス思考が働くのだろうと思います。かわいい子には旅をさせよといいますが、体力のある若い時の苦労が後々のストレスを感じさせないたくましい人間を作り上げるということなのかもしれませんね。子どもの幸せのためにといつも思ってしまう親心が過保護だとは気づかず、自分でコントロールできない場面に対処できずストレスに弱い人間を育ててしまうのでしょうね。

 

6月15日放送 「広辞苑の中の掘り出し日本語」
                  フリーライター 永江 朗

 これまで辞書をたくさん使ってきました。しかし、必要とする言葉を引くだけで、前文を読むことはありませんでした。だから、@… A… などはいろいろな使い方や意味があるくらいに思っていました。それが語源に近い順に並べられているなど思ってもいませんでした。

 これまでの私は、普段は「明解国語辞典」を使っており、よほど詳しくし、あるいは正確を要求される時だけ「広辞苑」を使っていました。家にある「広辞苑」は退職時にいただいた第5刷で本当に重いので滅多に使うことはなく、本箱の中で鎮座しています。また、川柳教室に出かける時は、初めはこれも頂き物の文字の大きな「現代実用辞典」を持参していましたが、重いので最近は安価な電子辞書を持参しています。電子辞書を使っていると、引いた言葉だけで、その周辺の言葉は改めて引かなければ知ることは出来ません。たった17文字の中に納める言葉を探すには不便を感じています。やはり紙の辞書も大切だと思います。

 広辞苑を読むということのおもしろさを聴き、断捨離で書斎(?)の机の棚が少し空いたので、そこに広辞苑を出しておいて、毎日楽しみながら読んでみようかと思います。ただ、小さな文字を読むためには、老眼鏡に掛け替える必要があり、これが面倒で小さな文字の本は最近読まなくなってしまいました。広辞苑と老眼鏡をセットにして置いておくといいかもしれません。


6月8日放送 「いつも私で生きていく」
                   女優 草笛光子

 後ろを振り返りながら生きるより、前を見続けて生きることこそ自分の生き方だとお話しされましたが、本当に大切なことだと思います。あの時ああすれば良かったとか、あのことがあったために自分の人生はこんなになってしまったと過去のマイナス面ばかり振り向いて、それにこだわっている人がいますが、私もそのような生き方はしたくないと思っています。裁判沙汰を起こしている人の中にこのような人がたくさんいて、うんざりすることがあります。

 舞台人はすべて自分で責任を負わなければならないので孤独だが、観客と呼吸があった時の喜びもまた素晴らしいと言われましたが、人を相手にする仕事はすべてそうだろうなと思いました。放送大学の講師をしていた時、1時間ほどの講義を2度、そして毎年7分ほどのミニ講義をさせて頂きました。講堂いっぱいの学生さんの温かく聞いてやろうとする反応とぴったり合った時には、ついつい話が延びてしまいそうになったことを思い出しました。また、50歳を少し超えた頃、頼まれて経験豊富な先輩のお偉方の集まりで1時間ほどお話ししたことがありましたが、そのときは自分の話にお偉方が反応してくれないというか、お偉方がそんな青臭い話は聞くほどもないという雰囲気が伝わってきて、早く止めてしまいたいと思ったことがありました。

 女優はいつも見られているので、当然ながらきちんとした日常生活や人生を送っていなければならないとお話しされました。常にそのような自覚を持って生きてこられたので、いま高齢になられても一流の女優としてみんなが見ているのだなと思います。世間を騒がせたり、スキャンダルの絶えない俳優や芸人がいますが、いくら演技力があってもやはり一流としては認められないと思います。中には自分の存在感を印象づけるため、売名行為としてスキャンダルを起こす俳優や芸人がいますが、もってのほかだと思います。草笛光子さんには、森光子さんのように、最後まで人々に愛され、若い俳優や芸人から尊敬される女優として活躍し続けてほしいなと思います。


6月1日放送 「日本人の生死観を読む」
              上智大学神学部教授 島薗 進

 「人は死に直面した時、初めて自分の生について考える」と話された言葉が特に印象に残りました。私も医師から余命を宣告された二人の親友から、その心境をメールで知らされました。共通しているのは、一方で自分の死の宣告を受け入れながら、もう一方で、もう少し自分のやり遂げたいことを継続するためにもっと生きていたいと願う気持を持っているのです。この二人の友は、自分のことより、人のために精一杯尽くしてきたのです。そしてその道半ばという思いをもっていたのだろうと思います。だから、多くの人に惜しまれながらの死でした。

 一方、自分の欲望のために、相手の人生を台無しにしたり、葬り去ってしまうという犯罪者や、犯罪者でなくても、自分の人生を狂わせた事故の責任者に対して、裁判でもってその人の人生を苦しめたり、台無しにしなければ気が済まないという人々もいます。私にとってはどちらも生死観として納得がいかない思いがします。

 自分の死を真剣に考え、生きる価値を考えれば、他人の人生をもっと大切にしなければならないと思うのです。話にあった戦争体験は、そのことをはっきり現しています。戦争がいかに人々の真剣に生きることへの妨げになっているかということなのです。現在の日本の政治家の中にも戦争は必要悪だという人が多くいます。そして軍備は現在の世の中では十分に備えておかなければならないと考えています。しかし、戦争はこの世にあってはならないことで、そのことを世界の人々はもっと真剣に考えるべきだと思うのです。宗教に関係なく、自分が生きていることができることへの感謝の心を持ち続けることができれば、決して相手の人生を傷つけることはできないだろうと思います。

 私自身が今年に入ってガンを告知され、幸いにも一応の治療を受けることができました。その経過については今月中旬に再検査を受けます。どのような結果になるかわかりませんが、自分の人生を自分なりに精一杯感謝しながら全うしたいと思います。


5月25日放送 「本科生にむけて〜知事あいさつ」
                     兵庫県知事 井戸敏三

 いよいよ新年度が始まるという感じでしたが、昨年度末で講師を辞職したため、これまでのような緊張感を持って聞くことはありませんでした。
 
 知事のあいさつの中で、先日の淡路島を中心とした震災の被害に対して、兵庫県が18年前の阪神淡路大震災の教訓を生かして、手早く対応されたことを知り、さすがだと感心しました。それでも今日の新聞では、梅雨が近づいているにもかかわらず、まだまだブルーシートに覆われた家が多いことに心配が募ります。被害は淡路島のごく一部だと思われますが、1月半経過してまだこのような状況だということに、再建の手続きに複雑さが絡んでいるのかなと思ったりします。被害が目に見えてはっきりしているのですから、県は政策として表面的な言葉に流れず、手続きの簡素化など、住民が迅速に復興復旧できるよう支援していかねばならないだろうなと思いました。

 テキストに掲載されていましたが、放送大学の学生さんのためにますますサービスが広がっていることに感心しました。特に聞き漏らした番組に対応するサービスは素晴らしく、これから受講しようとする若い学生さんに対して、パソコンや携帯に対応したサービスはとても有効だと思いました。試しにインターネットのラジオ関西ホームページからアクセスしてみると、今日の番組がすでに聴くことができるようになってました。今度は、インターネットで配信される「radiko.jp」で鮮明な放送を聞いてみようと思います。


5月18日放送 アンコールアワーA「置かれた場所で咲きなさい」
                     ノートルダム清心学園理事長 渡辺和子

 4月に胃ガンの手術のために1週間入院しました。その直前にもインフルエンザに罹患し、1週間外出できなくなりました。そのために手帳が真っ黒になるほど予定が詰まっていたのをすっかりキャンセルしました。そして昨日血液のガン(リンパ腫)で亡くなった親友の告別式に参列しました。彼もまた2年間の闘病生活の後、最後には教え子が教員として巣立っていく姿を見届けて亡くなったのです。

 これまでの私はいろいろなことに挑戦することが生きがいだったように思います。今置かれている場所を飛び出して、新たな自分探しをしていたのかもしれません。しかし、私の残りの人生も今回のことによってある意味で見えてきたように思います。だから流れに逆らわず、その日その日を感謝しながら生きるのが本当の幸せだいわれたことに共感できます。それは決して後ろ向きというのではなく、与えられた役割は精一杯勤めることだと思います。

 一日の終わりに三つの喜びを見つけ感謝することを失念していました。今一度心にとめておきたいと思います。


5月11日放送 アンコールアワー@「すごい和食」
               東京農業大学名誉教授 小泉武夫

 今回の放送を聴き、昨年12月にいいお話を聴いたと思っていたのに、忘れていたというか、実践できていなかった食生活の習慣がたくさんあることに気づきました。それは、乳製品を多くとっていることです。ヨーグルトのように発酵食品は小泉先生もすすめられていますが、牛乳は多少温めてそのまま飲んでいるというのが現状です。ただ救いはきな粉牛乳にしていることです。だから週に3Lの牛乳を消費しています。その上に自宅で薫製にした6Pチーズ、ヨーグルトを食べているのですから、日本人の遺伝子を無視していることになります。こんな時に野菜を食べるといってもサラダの生野菜ですから、ごく少量です。

 また、一日に1食はパン食ですが、そのときにも食パンであればトーストにしてたっぷりマーガリンを塗っています。その上、麺類好きなので、もう一食は麺類になったり、お好み焼きなどになり、ご飯は夜だけになったりします。だからすごい和食をもっと意識しなければと思いました。ただ、和食には調理に手間暇をかけなければならないので、私には手に負えず、高齢になってきた妻に無理を言えないところがあるなと思います。


5月4日放送 「大丈夫、なんとかなるさ」
               毎日新聞専門編集委員 近藤勝重

 昨日但馬地方をドライブしました。どの木も新緑が輝いていました。花の季節はそれぞれの木が花を咲かせて自分を主張しているように思いました。しかし、新緑の季節は花が咲く木も咲かない木もみんなきらきら輝いており、花の季節よりいっそう素晴らしく思います。

 最後に椚田教授が話された個人と国家の問題点のとらえ方の相違について、その通りだと思いました。緑を愛でる心の余裕を忘れず、また、日本の緑を大切にすることの大切さは、司馬遼太郎氏の講演の通り、人間としてとても大切だと思います。緑を愛でる心を失わなければ、人生なんとかなると思われます。しかし、国家間の問題となると、緑を愛でることだけでは解決しません。国益という言葉が横行するように、お互いに利害関係に執着し、解決へ向けて歩み寄ろうとする意図を見いだすことはできません。なんとかなるどころか、緊張が増すばかりです。過去のことを水に流して未来のために前向きに取り組もうという日本人特有の無常観は他国には通じません。

 日本の政治家も、緑を愛でるという心を失い、自己の利害に執着し、力ずくで物をいおうとする他国に対して力ずくで対抗しようとする世論づくりをしようとしているように思います。力ずくに頼ると、お互いにより強い力を競い合い、緊張が高まるばかりか、国民に対する心をなくしていきます。緑を愛でたいと思う国民が置き去りになってしまうのです。もう一度、「人間にとって緑はすべての基礎」と言われた司馬遼太郎氏の言葉を思い起こし、大切にしたいと思います。


4月27日放送 「ひとり老後の楽しみ方」
            聖路加国際病院精神腫瘍科医長 保坂 隆

 まず驚いたのが男性の健康寿命の平均が70歳ということです。私の身の回りを見渡すと、80歳を超えても自立しておられる人がたくさんおられ、現にグラウンドゴルフの仲間は私より年上の方ばかりです。私自身も1年前に後期高齢の仲間入りをしています。しかし、考えてみると、このように積極的に近隣の仲間と活動しようというのですから、健康でぼけずに一緒にグラウンドゴルフやカラオケをしていますが、健康を損ね、自立できない人は若くても目につかないのかなと思います。そう思うと健康であることに感謝しなければなりません。

 衣食住のダウンサイジングに関しては、一昨年持ち物の断捨離を試みたのですが、結局蔵書を数十冊捨てただけで、今なお物が増えても減ることがありません。改めて1日15分の断捨離を試みたいと思います。食も先日来の2度の絶食で、体重も3s減り、以前のように腹一杯食べるということがなくなりました。住に関しては、先祖から受け継いだ今の家を維持し、次に引き継がなければならないので、ダウンサイズという訳にはいかないと思います。

 人間関係のダウンサイズは、唯一現職時代の肩書きのついた集まりがあり、昨日その団体の会長を引き受けざるを得なくなりました。退職して15年も経つと、義理でおつきあいしなければならないと思うようになってきました。しかし、会長を引退しても顧問という名が付くので、義理を断ち切ることはできそうにありません。講師のお話にあった高齢者仲間のための奉仕の役割を担っていると考えれば、義理ではなくボランティアと思えるようになるかもしれません。私としては、家族・親族のほか通常は地域の高齢者仲間の集まり(老人クラブ)を中心に活動し、それ以外は退職後に立ち上げた気楽なグループと、川柳教室の仲間、さらに小学校の同窓会ぐらいでいいと思っています。

 幸い妻も今のところは元気なので、自分の健康に注意しておればお一人様になるのはもう少し先まで大丈夫だと楽観しています。そして健康寿命を維持するのもしばらくは大丈夫だと思っています。その間に書きかけのエンディングノートを完成し、断捨離をすすめておきたいと思います。


4月20日放送 「成熟への長い道を歩く」
               昭和女子大学学長 坂東眞理子

 まず加齢をどのようにとらえるかということが、高齢者の生きる姿勢に大きく関わってくるのだと思いました。坂東先生は成熟への過程であり、目標のようにとらえられていたように思います。そのことは、林住期をいかに大切に過ごすかということだと思いました。

 幸い、私の住んでいる地域は自分から求めればコミュニティが受け入れてくれる体制が整っています。私の場合、勤めている間は全く地域と関わりを持っていませんでしたが、退職後早い時期に老人クラブに加入したお陰で、クラブに貢献しながらスムーズに地域デビューすることができました。今の私の生活になくてはならないコミュニティです。ここではよけいな自我やプライドにとらわれず、まわりと接することが、自分の成長のための知識や情報を受け取ることができるように思います。

 一方、お金についても退職後、歩き遍路に参加したり、妻と旅行に出かけたり、歴史や伝統芸能講座を受講することによって、新たな経験や知識を得ることができ、趣味も広がり、生活に潤いを持たせることができました。もちろん講座で新しく得た知識を生かすほど記憶には残りませんが、それでも前向きに生きる姿勢への刺激にはなっていると思います。

 このように考えていくと、ただひとつ身だしなみを含めたおしゃれだけはさっぱりで、妻からもだらしないとよく指摘されており、まだまだ自分を甘やかしているんだと反省しています。


4月13日放送 「終活ファッションショー」
                    作家 安田依央

 自分にはまだまだ終活は関係ないと思っていましたが、今回の診断や入院を通じて、もっと具体的に考えておかねばならないと思うようになりました。そのもっとも大切な観点は残された家族に迷惑をかけられないということで、決して自分の欲望や固執ではないと思います。葬儀ひとつ取り上げてもできるだけ簡素にやってもらえればいいのですが、残された家族の対面をつぶすようなやり方になってはいけないと思います。

 エンディングノートについては、たまたま買う決心をし本屋へ寄る予定にしていた前日にガンを宣告されたのです。予定通り買ってきてパソコン内で書き始めましたが、入院で中断してしまいました。入院中にベット上でこの講座を聞きました。それだけに終活について熱心に耳を傾けていました。終活のファッションは宗派は違いますが歩き遍路で着ていた白衣を上からかけてもらい杖を入れてもらえればそれでいいと思っています。退院してきた今日、感謝のメッセージだけはきちんと書き残しておきたいと思いました。


4月6日放送 「成り行き任せの百歳」
                 元灘校教師 橋本 武

 人生は偶然の連続であり、それは必然としての運命だと話されましたが、私にとっても同じだったと思いました。たまたま合格した大学で出会った教授のいわれるままに就職し、教科書のない特殊教育で、自分の思うように工夫しながら子ども達と一緒に学習する環境は、講師の話と共通するものでした。半人前の教師が中学生の子ども達と作業学習だといって活版印刷に取り組み、小学生の子ども達と生活単元学習だといってごっこ遊びを楽しみ、すべて指示もされず任された環境の中で創造力を生かして楽しみながら勤めていました。

 結婚にしても、下宿を追い出される羽目になって、下宿先を探していてたまたま持ち上がった縁談だったし、転勤先も、たまたま他の教師の都合で代わりに赴任した学校で、その後の運命が大きく変わったこともありました。定年退職後もそれまでとは全く違った分野の職場にお世話になったことが、今の充実した老後につながっています。まさに成り行き任せの人生でしたが、これが必然であり、生まれる前から定められた運命だったのだろうと講師の話を聞きながら思いました。