KIMの電気リポート6

電気技術者が読む般若心経

序に変えて
(1)初めに
(2)必要条件について
(3)12支縁起の体系は必要条件の体系
(4)思考の順序について
(5)色即是空、空即是色
(6)ブッダの公式の応用@ 原因確定法
(7)ブッダの公式の応用A ハインリッヒの法則
あとがき

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序にかえて
  1. Fは力[N]である。aは加速度[m/s]である。ある物体に力Fが加わり、加速度aが発生するとき、その物体の質量をm[kg]と定義するのである。

  2. 無造作に「物体」という言葉を使ってしまった。仏教では物体の存在自体を無自性である、と言ったりするが、「無自性」とか「存在」とか微妙な意味があるのだろうが、 今の私にそれらを展開する能力はない。ここはひとつ黙って眼をつむっていていてほしい。

  3. 我々は普通「質量」などと思わず、単に物体の「重さ」と考えている。通常の場合、物体の属性の一つとしての重さは、重要な要素である。そのため我々は日常の 思考で、重さという属性は存在している、と無意識に考えている。

  4. ところが実際は上記のように単に力と加速度で定義された量でしかない。「空」とはこのようなことをいうのではないのだろうか。また微妙な「空」という語を使ったが、 上記と同様である。以下いちいち言い訳しないで、微妙な言葉を使わせていただく。詳しい人から見ると、「知ったかぶり」に見えるだろうが、このリポートのテーマが 微妙な言葉の解説ではないので、ご勘弁いただきたい。

  5. では、力Fはどう定義するのか、また加速度aは位置の変化であるが、位置はどう定義するのか。このように考えると、すべては定義されたものの関係で、確かな実体を もつものなど存在しない、と言えるかもしれない。

  6. ここで物理諸量の導き方を論議するつもりはないし、その能力も私にはない。ただ物理で扱う基本量も意外と根無し草なのだな、と感じていただきたいだけである。

  7. ついでに電気諸量についても一瞥しておこう。1アンペアの定義は、真空中に1mの間隔で平行におかれた無限に細く無限に長い2本の導線に、等しい電流をながしたとき、 2本の線に2 × 10-7ニュートン(N)の力を生じるような大きさの電流である。

  8. 1アンペアの電流によって1秒間にはこばれる電気量を1クーロン(C)という。クーロンは電気量、電荷をあらわすSI組立単位で、1C = 1A・s(s:秒)とあらわされる。

  9. 1アンペアの電流がながれる導線の2点間において消費される電力が1ワット(W)であるとき、その2点間の電圧を1ボルト(V)とする。ボルトは、電位、電位差、電圧、起電力を あらわすSI組立単位で、1V = 1W/Aとあらわされる。

  10. ワットは、仕事率、電力をあらわすSI組立単位で、1秒につき1ジュール(J)の仕事をする率をいい、1W = 1J/sである。電力の場合は、1ボルトの電圧で1アンペアの電流がなが れるときに消費される電力が1ワットで、1W = 1V・A = 1J/sである。

     
  11. このように電流はまたしても「力」から定義される。この電流が定義されると、次々に電荷、電圧、ワットなどが定義される。このように電気諸量も質量mと同じく定義された もので、実在する属性ではない。「空」とはこういうものではなかろうか。

     
  12. なお、電気諸量の記述については「EMANの物理学」サイトから無断で転載させていただいた。

     
  13. 次に生活に密着したものについても考えてみよう。例えば「家」であるが、雨露を防ぎ、寒気・暑気や暴風を防いで生活をしやすくするもので、屋根・柱・壁などから構成 されている。「家」という実体はなくて、このようにたまたま存在しているものを「家」というにすぎない。コンピュータを考えてみるともっとわかりやすい。「コンピュータ」 というものは実体として存在しない。江戸時代の人には思いもよらなかっただろう。それが、時代が進んで科学技術が発展したため、現在では当たり前のようにあるが、まさに 時代の発展という縁でもって生じてきたものである。

     
  14. これから仏教のことを書くので、「自我」についても付言しておく。人間は色(身体)・受・想・行・識の五蘊の集まりであり、それぞれが実体があるのでなく縁によって  生起するので、自我などどこにもない。上記の物理諸量と同じで定義されただけのものなので、無我であると主張される。

     
  15. 理科系の人には、このように多くの事柄がただ単に定義されているだけで、実在しているように見えるが実際は何もない、すなわち「空」である、ということは意外とすんなり 受け入れられるのではないだろうか。理科系の人は哲学が苦手との先入観をもっているかもしれないが、むしろすんなりと納得できることが多いかもしれない。特に縁起を説く 仏教は原因と結果を重視するので、文科系の人より理解が早いかもしれない。



(1)初めに

 四国遍路に行くと、必ず札所で般若心経をあげる。最初はほとんど意味がわからない。先達さんにあわせて読むのが精一杯である。しかし20ヶ寺ほど回ると 少し余裕が出てきて、意味を知りたくなってくる。「色即是空、空即是色」や「不生不滅、不垢不浄、不増不減」などは私の知識欲をくすぐるように響いてくる。

インターネットで調べていると、「色即是空」は正しいが、「空即是色」は間違いであるという衝撃的な記事もあった。しかし何回も読んでいると、どうもおかしい。 これは数学でいう必要条件と十分条件の誤解だと気づいてきた。どのように誤解していると私が思ったか、がこのリポートの主テーマのひとつである。

なお、このリポートでは石飛道子氏の「ブッダ論理学5つの難問」と「ブッダと龍樹の論理学」は大変参考になった。その中に記されている真理表はこのリポートでも 多用するので、ここに掲載させていただく。

TUVW
命題 T  T  F  F  関数説明
真理値
番号
P∨Q選言(または)
P*Q法輪(縁起)
×
P⊃Q含意(ならば)
×
P≡Q等値
P∧Q連言(そして)
楽・苦・楽でもなく苦でもない
10P∨Q選言(Pまたは
11×
12×
13×
14×
15中道
16四句分別

(注意)命題Pの否定は表記上の理由でと表す。



(2)必要条件について
  1. 石飛氏は真理値番号3を「法輪」という名称で呼んでいるが、これはとりもなおさず数学でいう必要条件を表している。「雲がある」を命題P、「雨が降る」を命題Qとする。 このとき論理式は「P←Q」である。「←」は本当は「⇒」の反対向きで表記したいのであるが、どうしても書けないのでこのリポートでは単矢印「←」で表すことにする。 注意してほしい。

  2. 雲があっても、雨が降らない場合があるし、雨が降っていれば必ず雲がある。従って、PはQの必要条件である。

  3. 真理値表3で顕著な特徴は、「」である。「雲がない」ときは絶対に「雨はない」のである。狐の嫁入り的な揚げ足取りはなしとする。従って、 「雲がない」とき「雨が降る」は「F」である。の十分条件である。ちなみに龍樹は必要条件のことを「生因」、十分条件のことを「了因」と呼ん でいる。

  4. これらのことを全部含んで、すなわちT〜Wをすべて「P←Q」で表すのである。必要条件とはそういう意味である。しかし現実問題として、また日常生活上これらの 4パターンをいちいち言うことはない。日常では「雲があるとき雨が降る」と言うことでT〜Wのすべてを言っている、と了解しなければならない。

  5. ただし、いくら日常では「雲があるとき雨が降る」と言うことでT〜Wのすべてを言っている、としてもこれを「P⇒Q」と表してはならない。日常表現と論理表現は 峻別しなければならない。なぜなら論理記号⇒または←は、必ず成り立つ方向に記述するので、原因と結果すなわち因果関係を論議しているときの方向の誤りは、結論が誤ると いう致命傷になるからである。石飛氏は「ブッダと龍樹の論理学」100ページで不用意に「渇愛⇒苦しみ」という表記を使っているが、氏の言いたい論理表現は 「渇愛」←「苦しみ」である。論理を語るときには誤解される表現は避けなければならない。

  6. また真理値番号3のパターンWの場合のように、すなわち「雲がないとき雨は降らない」の場合のように、論理表現と日常表現が合致するときは特に問題はない。

  7. 次にPとQを入れ替えてみる。Pが「雨が降る」であり、Qが「雲がある」場合である。これは真理値番号5にあたる。すなわち論理記号で表すと、「P⇒Q」であり、 PはQの十分条件である。すなわち真理値番号3と5は相互に入れ替え可能であり、一方から他方は論理的に導くことができる。西洋論理学のことはよく知らないが、 西洋論理学は真理値番号3を扱えないのではなく、論理値番号5から導かれるためあえて言及しないだけのことではなかろうか。これは私の憶測である。

  8. 「P⇒Q」と「P←Q」の両方が成り立つ場合は、真理値番号7の等値の関係で、必要十分条件と言われる。記号は「P⇔Q」である。ブッダが縁起を「これがあるとき かれがある。これがないときかれがない。」という言い方で表現していることから、真理地番号3と5と7を一まとめに扱っている、とする解釈があるようである。そこに 原因と結果の時間的関係を扱う因果関係が、存在の相互依存関係とも解釈されるという、混乱の原因があるとする主張もあるようである。

  9. 「これがあるときかれがある。これがないときかれがない。」を論理表現と考えると確かにそのとおりかもしれない。しかしこのブッダの公式は、縁起を日常生活上の表現で 表したものと考えるなら、縁起が相依関係であるという解釈は出てこないと思われる。あくまでも因果関係すなわち必要条件を表しているに過ぎない。

  10. 因果的な表現があるとき、それが日常生活上のことを言っているのか、それとも論理的に表現しているのかは常に注意が必要である。ただし多くの場合、日常生活上の 表現であることが多い。だからこそ、その表現にだまされてはならないのだと思う。論理的な話をするときは厳密に話さないと、おかしな結果となってしまう。これは私の 解釈である。



(3)12支縁起の体系は必要条件の体系
  1. 十二支縁起を考えるのであるが、ここでは代表して、「生があるとき老死がある」と、「感受があるとき渇愛がある」を考えてみる。

  2. 「生がある」とき「老死がある」のはごく普通に正しい。しかし必ず成り立つわけではない。今現在生きている者は死なないかもしれない。これは蓋然的なことで、 石飛氏も指摘している。逆に「老死がある」とき「生がある」は必ず成立する。「老死がある」のに「生」がないことはない。また否定の場合も考えておこう。 「生がない」とき「老死がない」は正しく、「生がない」のに「老死がある」ことはあり得ない。「老死がない」ときは「生がある」かもしれないし「生がない」 かもしれない。断定できないので、正しいとするしかない。

  3. これらより、「生」は「老死」の必要条件であることがわかる。「生がある」←「老死がある」である。このことを釈尊は「生があるとき老死がある」と、日常生活上の 話し言葉で、表すのである。原因と結果があるとき、普通は「原因があるので結果がある」と表現する。つまり「生があるとき老死がある」と表現するのである。 論理的には正しくないが、日常のレベルで表現するのでそう表すのである。間違ってはならない。

  4. 次に、「感受があるとき渇愛がある」を考えてほしい。同じことなので結果だけ書いておく。「感受がある」←「渇愛がある」である。

  5. さて、ここで問題が生じてくる。「無明」から「老死」にいたる個々の11の関係すべて必要条件であるのだろうか。私の勘ではこれらの関係は次のように なるのではないかと思う。

    「無明」←「行」⇔「識」⇔「名色」⇔「六入」←「触」←「感受」←「渇愛」⇔「取」⇔「有」←「生」←「老死」

    あくまで私の勘なので、間違っていると思う。しかし論理的な関係を考えると、例えば「渇愛」⇔「取」の場合、「渇愛がある」とき「取がある」であり、「取がある」 とき「渇愛がある」である。また「渇愛がない」とき「取がない」であり、「取がない」とき「渇愛がない」である。結局、因果的に重要なことはこの関係からは何も 結論付けされないのである。そこで「渇愛すなわち取」というふうにまとめてもいいくらいである、と私は思う。因果関係を考えるときに重要なのは、「←」であり「⇒」なの である。「⇔」はあまり重要でないように思う。ただし、これはあくまで世俗上のことで、後で出てくる悟りの世界の話ではないから注意が必要である。

  6. その意味で12支縁起の順観は全体から見ると、必要条件の連鎖である。釈尊はこれを「此縁性」と呼んでいるようである。また「無明」から「老死」にいたる順観は 必要条件であるが必ず成立するわけではない、という意味で「虚妄な法」とも呼ばれているようである。さらに「これがあるとき、かれがある」という日常生活上の表現 なので、「世俗諦」とも呼ばれているようである。それはさておき、必要条件ということから、自然と導かれる重要な関係が2つある。

  7. 第1。「老死」から「無明」にいたる方向は十分条件なので常に成立する。つまり石飛氏が「理由付けの関係」と呼んでいるは正しい関係なのである。正しいので あるが、ブッダはなぜか特別な呼び名を与えていない。あるいは「此縁性」で一括しているのかもしれない。

  8. 第2。「無明がない」から「老死がない」にいたる逆観も正しい。これは、「虚妄ならざる法」または「第一義諦」と呼ばれている。重要なので全部の連鎖を書いて おく。

    「無明がない」⇒「行がない」⇔「識がない」⇔「名色がない」⇔「六入がない」⇒「触がない」⇒「感受がない」⇒「渇愛がない」⇔「取がない」⇔「有がない」⇒ 「生がない」⇒「老死がない」

    ここで私の勘である「⇔」はそのままにしておいた。念のため。

  9. もう一つ必要条件から重要な結論が出てくる。ただし以下の主張は私の憶測であるので、あまり当てにしないでほしい。もし12支の関係がすべて「⇔」であったら「無明」 から「老死」までは無条件で成立してしまい、人間の主体性が取り入る余地はない。つまり運命論のようになってしまう。途中の「感受」から「渇愛」にいたる縁を制御 して、「渇愛」が生じないよう、いわゆる「感官を制御する」ことなどおぼつかなくなる。釈尊はそうは言っていない。常に「感官をよく制御しなさい」と説いている。

  10. 「感官を制御する」ことが可能なのは、「感受」と「渇愛」の関係が必要条件であるから、と私は主張したい。必要条件であるからこそ、「感受」が「渇愛」に発展 しないように制御すれば、「渇愛」は生まれない。これは石飛氏が言うところの「第1の清浄行」であろう。

  11. このことは社会生活にも応用できる。ある人が貧乏で大変苦労しているとする。これを縁起関係がすべて「⇔」とすると、前世の「業」によって必然的に貧乏になっているから 運命とあきらめなさい、せめて来世のために精進しなさい、という結論にならざるをえない。これは「宗教は阿片である。」という間違った主張に組するものである。また こういう考え方は、支配者の悪政も運命とあきらめなさい、という結論になり結局現状肯定とならざるを得ない。

  12. これは基本的におかしい。「貧乏」の原因を探していって例えば「悪政」にたどり着いたとする。つまり「悪政」←「貧乏」が導かれたとする。すると「悪政がない」⇒ 「貧乏がない」なので、「悪政」から「貧乏」にいたる縁を制御して、「貧乏」にならないように計らうことができるのである。現実から逃避することなく、現実を正しく 見なさい、というブッダのメッセージと考えるのは我田引水すぎるだろうか。

  13. ブッダは宗教家なので、生老病死に苦しむ人間を解脱させることを第一にしている。そのため、現実生活上の矛盾の因果関係はほとんど言及していないようであるが、「宗教は 阿片である。」という誤解を招かないためにも、政治経済とかの現実生活上の問題にも、因果の法則で正しく対応したいものである。

  14. この「計らい」については、もうひとつ書いておかなければならない。ブッダは「永遠なるものは世界である」などの形而上学説に対しては無記を貫いたようである。 そのような主張は「感受」されたものに他ならず、「感受」されたものは12支縁起の順観で「苦しみ」にいたるしかないから、という理由だそうである。

  15. しかしこの理由は少し舌足らずである。正しくは、そのような主張は感受されたものに他ならず、何も計らわなかったら、感受されたものは12支縁起の順観で 苦しみにいたるしかないから、という表現になる。だから「感受」から「渇愛」に進まないように無記で制御しなさい、ということである。「それらは私によっては説かれなかった 法である、と憶持しなさい。」とは感官を正しく制御しなさい、というのに等しい。



(4)思考の順序について
  1. 石飛氏の上記2冊の著書は、ほんとに理解しやすい仏教の良き入門書である。私は何度も何度も読み返して、ブッダの言いたいことが少し見えてきたよう気がしている。 この2冊を執筆された石飛氏に礼拝して奉る。しかしながら良書であればあるほど、無欠であってほしいので、誤っていると思われる箇所には批判がいってしまう。 どうでもよい本なら間違いもどうでもいいのである。この2冊はどうでもよくないので、私が誤りと思うことをここに記しておく。

  2. 石飛氏は因果関係と相互依存関係に言及して、すべてのものは縁起によって生起消滅している、そして因果関係のように時間がはいると、相依関係はありえない、と 結論付ける。現実世界は真理値番号3で起こる順序に従って、生じたものから一方的にでてくる。また思考の世界は真理地番号5または7によって記述されるが、 思考の順序に従うなら、時間要素がはいり、やはり思考が生じた順に一方的にでてくる。その出てきた順に記述すれば間違いようがない、というのである。

  3. 石飛氏は「苦しみ」と「渇愛」の関係を考えている。「苦しみ」があるとき「渇愛」がある。また「渇愛」がないとき「苦しみ」がない。これは苦しみから考えると 十分条件である。つまり「苦しみ」⇒「渇愛」である。真理値番号5である。ただそれだけのことである。

  4. それなのに石飛氏はブッダの公式「これがある時かれがある。これがない時ときかれがない。」をどうしても成立させたいがため、「苦しみがある」とき「渇愛がある」、 の場合は「苦しみ」=これ、「渇愛」=かれと置くのに、「渇愛がない」とき「苦しみがない」の場合には、勝手に(石飛氏によれば思考の順に従って)「渇愛」=これ、 「苦しみ」=かれ、と置き換えるのである。この置き換えの方法は氏の著書のあちこちで見られる、氏独特の手法である。私は詭弁であると思う。

  5. たとえば赤い布を織る場合を考えてみる。白い糸で布を織る。これは論理の考察にあたる。次に白い布を赤く染める。これは論理的結論を日常生活上の表現に置き換える ことに相当する。これが正しい方法である。

  6. ところが石飛氏は白い糸で織っている途中で、赤い濡れた糸を混ぜてしまう。「これ」と「かれ」を置き換えるのである。朱に交われば赤くなるので、出来上がった 布は最初から赤い。

  7. 結果として赤い布が出来上がるから、結論だけを注目しても見分けがつかない。しかし論理を語る場合には、そうであってはならない。あくまで理詰めで論証する 必要がある。

  8. そもそも常識的な日常の思考の順序なんて人さまざまだし、多くの人がその順序で考えるからといって、正しいとも限らない。多くの人が考える順序が正しいのなら、 いまだに太陽は地球の周りを回っているだろう。また物事の存在についても、普通は「ある」と考えるだろうから、ブッダのような「縁によって生滅する」といった ある意味ひねくれた考え方はでてきようがない。この2例で十分である。

  9. 結論。論理の話をしている途中に、日常生活上の常識を持ってきてはいけない。論理を話すときはあくまで論理だけを語らねばならない。石飛氏には自明すぎて、 つい筆先が(ペン先か)滑ってしまったのだろう。



(5)色即是空、空即是色
  1. これは「色」と「空」の関係を記述したものである。般若心経に出てくる命題で、般若心経の核心部でもある。般若心経では「色不異空、空不異色」と組み合わせて 出てくる。組み合わせた議論は後回しにして、まず「色」と「空」の関係を考察する。ただし以下の論議では、「色」とは「縁起により生起する物質的現象」、そして「空」とは 「自性がないこと」と、眼をつむって納得していただきたい。でないと議論が続かないのである。

  2. 「これがクジラである」とき、「これはほ乳類である」は正しいが、逆は正しくない。このことと同じで、「色即是空」は正しいが、「空即是色」は正しくない、という 主張がある。論理だけで考えると、その批判は的を得ている。

  3. 論理関係は、「色」⇒「空」つまり「空」から見ると「色」は十分条件である。「縁起により生起する物質的現象は自性がない」はもちろん正しい。逆つまり「色でない」← 「空でない」も正しいはずである。確かめておこう。「自性があるとき、それは縁起により生起しない、つまり縁起によらず生起する」何となく正しいようである。ところで 「色」←「空」はなぜ正しくないのだろうか。「空」であるものが「色」の他にもあるからである。「受想行識」である。

  4. さて、十分条件は置き換えて、必要条件で表すことができる。「空」←「色」である。「空」と「色」の関係は含意の関係で、因果関係ではないが、「空」←「色」の 関係は形式上因果関係と考えることができる。「これが色」であるためには「これが空である」ことが必要なのである。「これが空である」からこそ「これが色である」 ことができる、と言ってもよい。「雨がふる」とき「雲がある」ことが必要なのと同じである。「雲がある」からこそ「雨が降る」のである。

  5. そこで、日常生活上の表現で、「雲があるとき、雨が降る。」と表現するように、「これが空であるとき、これが色である」とも言えるのである。「空」とか「色」とかは 日常生活では使わないので違和感があるが、形式的には同じことが言えるわけである。すなわち、「空即是色」である。石飛氏の書き方に従って、見事である、と言って もらえないだろうか。

  6. 私の独りよがりでない証拠を示しておく。岩波文庫の「般若心経」の註で、中村氏は次のように訳しておられる。物質的存在をわれわれは現象として捉えるが、現象という ものは無数の原因と条件によって刻々変化するものであって、変化しない実体というようなものは全然ない。また刻々変化しているからこそ現象としてあらわれ、 それをわれわれが存在として捉えることもできるのである。

  7. ところが私の一見見事に見える主張は、実は的外れなのである。般若心経のこの部分は玄奘訳では「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」の2段であるが、本来3段で あるらしい。法月訳では、「色性是空、空性是色、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」となっている。私の説は「色性是空、空性是色」の部分を解釈しているのである。 問題の「色即是空、空即是色」の部分を説明しているわけではない。私が解釈した部分は天台智の説いた「空仮中」の「空諦」に当たるらしい。

  8. それでは、第2段の「色不異空、空不異色」はどういうことだろうか。以下中村氏の解釈を参考にしつつ、私流の論理関係を解説したい。「縁起により生起する物質的現象」 すなわち「色」の「自性のない」ありようを「仮」に「空」と定義しましょう、ということらしい。今まで散々「空」と言っておいて、いまさらそれはないだろう、と言うなかれ。 今までの論議は世俗諦のことと割り切れば、ここから改めて第一義諦を論議するので、「空」についても改めて定義しましょう、ということだと解釈すると、そんなに腹も 立たない。

  9. 「色」を「空」と定義する、とは論理的には「色」⇔「空」と考えることになる。「m」を「F=ma」で定義したことを考えてほしい。「F」と「m」はどちらかが 時間的に先の因果関係ではなく、お互いが依存しあう相依関係である。どちらが原因で、どちらが結果と言えない関係である。「定義する」とは論理的には相依関係「⇔」のこと である、と思う。この部分は天台智の説いた「空仮中」の「仮諦」に当たるらしい。

  10. 相依関係なら何も難しいことはない。「色即是空、空即是色」を説明するのに何か新しいことが必要だろうか。「m」を定義したので改めて、「F=ma」を宣言している ように、「色即是空、空即是色」と宣言しているに過ぎないように、私には思われる。この部分は天台智の説いた「空仮中」の「中諦」に当たるらしい。

  11. つまり「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」の第2段、第3段は世俗の話ではなく、悟りの世界での話、ということらしい。そういえば、般若心経を理解 するポイントは、「般若心経は悟りの世界での話である」と知ることである、というように書いたサイトがあったような気がする。



(6)ブッダの公式の応用@ 原因確定法
  1. 一般に公式というものは、それを現実にそのとおりに当てはめて、簡単にまた単刀直入に結論がえられる、ところにその使用価値がある。ブッダの公式は@因果関係を確定 させる方法、A結果を発生させない方法、として大いに利用価値がある。まずブッダの公式を再掲しておく。

              (1)これがあるときかれがある
              (2)これが生ずるからかれが生ずる
              (3)これがないときかれがない
              (4)これが滅するからかれが滅する

  2. ある事象Qの原因を考えていて、原因らしきものPが見つかったとする。このPを公式(3)に当てはめてみて、PでないときQでない、が確かに成り立つならPはQの 原因として差し支えない、というごく簡明な方法である。逆にこのPを公式(3)に当てはめてみて、PでないときQでない、が成り立たないなら、PはQの原因ではない のである。

  3. たとえば「雨が降る」原因を考えて、「雲がある」ことを思いついたとする。これを公式(3)に当てはめてみて、「雲がない」ときには確かに「雨は降らない」ことを 確認できる。これで「雨が降る」原因が「雲がある」ことであると確定するのである。その論理的内容は、「雲がある」は「雨が降る」の必要条件である、ということである。 これは口が酸っぱくなるほど何回も書いたことである。したがって、「雲がある」とき必ず「雨が降る」ような十分条件の事象をいっているのではないのである。ほんとうに 注意してほしい。縁起がわかるかどうかの分岐点、と私は感じている。

  4. 他の例で考えてみる。福知山列車脱線転覆事故の場合である。「脱線転覆」した原因は、「カーブに限界速度を超えて侵入した」ことである、はごく普通に考えられるし、 なんら問題ないように思える。時間的にも「カーブに限界速度を超えて侵入した」ことが「脱線転覆」したのより先に発生している。しかしほんとにそうだろうか。ブッダの 公式(3)で確かめてみる。「カーブに限界速度を超えて侵入しなかった」としても、絶対に「脱線転覆」しないとは言えない。例えばレールが大きく陥没していたら、 「カーブに限界速度を超えて侵入しなかった」場合でも「脱線転覆」するし、また土砂がレール上に大きく堆積していても同じことが言える。

  5. 一見間違いのない原因に見えるが、論理的には正しくないのである。しかし現実には現場でレールの陥没も土砂の陥没もないので、「カーブに限界速度を超えて侵入しな かった」ら、絶対「脱線転覆」しないのである。ブッダの公式(3)のとおりなので、「カーブに限界速度を超えて侵入した」ことが「脱線転覆」の原因として、確定できるように 見える。しかしよくよく考えてみると、「カーブに限界速度を超えて侵入した」ら、必ず「脱線転覆」するのである。「カーブに限界速度を超えて侵入した」のに「脱線転覆」しな かったらビックリである。あり得ない。これらのことを総合すると、論理関係は、「カーブに限界速度を超えて侵入した」⇔「脱線転覆」となるのである。

     
  6. これは必要十分条件である。これは、「カーブに限界速度を超えて侵入した」ら「脱線転覆」する、「カーブに限界速度を超えて侵入しなかった」ら「脱線転覆」しない、 また「脱線転覆」したとき「カーブに限界速度を超えて侵入」している、さらに「脱線転覆」しないとき「カーブに限界速度を超えて侵入」していない、と言っているに過ぎない。 「カーブに限界速度を超えて侵入した」ことと、「脱線転覆」したことは内容的には同義反復である。因果関係の追及には何ら寄与するところがない。

  7. では本当の原因は何か。あらためて、「カーブに限界速度を超えて侵入した」原因を考えてみる。そこで、「運転手のブレーキ操作が遅れた」と、「ATSが設置されて いなかった」および「ブレーキ故障」が、原因候補として浮かんだとする。各々をブッダの公式(3)に当てはめてみる。「運転手のブレーキ操作が正常」でも「ブレーキ故障」 があれば「カーブに限界速度を超えて侵入」するので、「運転手のブレーキ操作が遅れた」ことが「カーブに限界速度を超えて侵入した」原因とは確定できない。同様に 「ATSが設置されて」いても「ブレーキ故障」があれば「カーブに限界速度を超えて侵入」するので、これも原因として確定できない。更に「ブレーキ故障」がなかっても 「運転手のブレーキ操作が遅れた」ときは「カーブに限界速度を超えて侵入」してしまうので、これも原因として確定できない。三すくみ状態である。

  8. しかし調査が進んで、「ブレーキ故障」はあり得ないことが判明したとする。あらためて、ブッダの公式(3)に「運転手のブレーキ操作が遅れた」と、「ATSが設置されて いなかった」を代入してみる。「運転手のブレーキ操作が正常」なら「カーブに限界速度を超えて侵入」することはない。また「ATSが設置されて」いたらたとえ「運転手の ブレーキ操作が遅れ」ても「カーブに限界速度を超えて侵入」することはない。

  9. かくて、「運転手のブレーキ操作が遅れた」ことと、「ATSが設置されていなかった」ことが、「カーブに限界速度を超えて侵入した」原因と確定される。念のため、 十分条件でないことを確認しておこう。「運転手のブレーキ操作が遅れ」ても、もし「ATSが設置されていれ」ば、「カーブに限界速度を超えて侵入」することはない。 また、たとえ「ATSが設置されていなかって」も、「運転手のブレーキ操作が遅れなかった」ら「カーブに限界速度を超えて侵入」することはない。これで十分条件で ないことが確認できた。

  10. このように原因のように見えて、実際は同義反復しているに過ぎない事例は現実世界では意外と多いのではなかろうか。同義反復を因果関係と勘違いするので、時間的 要素が介在する因果関係を、相互依存関係と勘違いするのではないだろうか。これは私の推測である。

  11. ブッダの公式を原因確定に応用するときは、以上からわかるように細心の注意が必要なようである。しかし細心の注意が要るような公式は使いづらい。ところがブッダは いとも簡単に、「感受」がないとき「渇愛」がない、だから「渇愛」の原因は「感受」である、と確定している。ブッダはもちろん、「感受」←「渇愛」の関係を言っている。 だからこそ、「感官を制御しなさい」と言っているのである。「感受」⇒「渇愛」のことを言っているなら、「感官を制御しなさい」と言うはずがない。

  12. やはり対機説法なのだろうか。実際に役に立つ公式でないと意味がない。だから庶民が混乱するようなややこしいことは言わない。言わなくてもブッダの説法を最初から 最後まで聞いておれば、言いたいことは自然とわかってくる。ブッダの説法を直接聞くことができた人は幸せである、とはこのことを言っているのではなかろうか。 しかし、ブッダ没後には龍樹のような人が出てきて、論理的に説かないと成り行かなくなった、とも言えないだろうか。ブッダの公式はブッダがいてこそ自由自在に 使いきれる使用価値があった。しかしブッダ没後は細心の注意を持って使わないと、かえって間違った結論に導く恐れがある、ということか。

  13. ここまで書いてきて、ある疑問がひらめいた。「無明」はほんとに「行」の原因なのだろうか。ブッダの公式(3)に当てはめて確認してみよう。「無明」がないとき 確かに「行」はないように感じられる。しかし現在はブッダ没後2500年である。細心の注意が必要な時代なのである。「無明」があるとき、そのまま「行」に進んで しまうような気がする。論理的に「無明」⇔「行」のような気がするのは私だけだろうか。

  14. もし論理的に「無明」⇔「行」なら、これは既に検討したように、現実的に有用なことは何も言っていないことになる。では「行」の本当の原因はなにか。福知山事故の 場合と同じく、さらに「無明」の奥にある原因を考える必要が生じている。私の偏見かもしれないが、唯識派といわれる人々も同じように考え、「マナ識」さらに「アラヤ識」に 考えついたのでなかろうか、

  15. どこまで行くのだ。以上は私の感じたことである。つまり単に「感受」しただけのことで、なんら論証できる事柄ではない。そこでブッダの説法に従うことにする。 感受したものは感受したものとして、それだけに留めなさい。感受したものを放って置くと、その法則にしたがって、妄想の世界は止め処もなく広がってしまう。ブッダに よって説かれなかったことは、説かれなかったこととして憶持しなさい。はい、わかりました。皆さん、この話題は私が感受しただけのものと考え、それだけに留めて ください。



(7)ブッダの公式の応用A ハインリッヒの法則
  1. ハインリッヒの法則とは、「1件の重大災害(死亡・重傷)が発生する背景に、29件の軽傷事故と300件のヒヤリ・ハットがある。」というもので、重大事故を防ぐには 小さなヒヤリ・ハットを一つ一つつぶしていくことが大切だ、と言うものである。直接的に、重大災害(結果)の原因が29ある、とは言っていないが、ブッダの縁起の法則 とよく似ている。結果の原因として、多くの中原因があり、さらにその中原因に多くの小原因がある、と解釈しておく。少なくとも私はそう思っている。

  2. ブッダの法則(3)に従うなら、ある一つの原因を除去すれば、結果は発生しない。この関係は縁起に関する限り、絶対的に正しい法則である。「縁起の逆観」であり、 第一義諦」である。四聖諦の「滅諦」でもある。

  3. 重大災害の下に多くの原因があるのであるが、これは災害が発生した後に調べて判明することである。しかし重大災害がまだ発生していないとき、小さな事故や、ヒヤリ・ ハットが発生しているとき、これが重大事故の原因だとはわからない。わからないが、これらの原因となりうる小さな事故がある縁で集起したとき、重大事故が発生する ことは、十分考えられる。ある意味、縁起の法則そのもの、と言えるかもしれない。

  4. これらの小さな事故をなくしていったら、つまり重大事故の原因を一つでもなくせば、重大事故に至る「縁」は集起することができないので、結果と して、重大事故は防げることになる。ところが、重大事故はその発生を防ぐ努力を何らしなくても、発生しないかもしれない。いくら努力しても、発生してしまうかもしれない。 ここは結果の世界である。人間の輪廻に似たところがある。いくら行いを良くしても、前世の「業」でこの世の結果は良くないかもしれない。あるいは逆もあろう。結果 からしかわからない。原因は結果から推測するしかない。

  5. ここは善因楽果、悪因苦果を信じて、ひたすら小さな事故をなくするよう努力するしかない。縁起の法則は、ブッダが生まれようが生まれまいが、関係なく成り立っている 法則である。ニュートンによって発見された万有引力の法則みたいなものである。従って、繰り返しになってしまうが、重大事故の「縁」が集起しないように、計らうしかないの である。その計らいが、小さな事故をつぶしていく、ことに他ならない。このように私は信じている。また職場の後輩たちにも事あるごとに、それとなく言っている。

  6. ある小さな事故が発生したとき、その原因を正しく分析し、二度と同じ事故が起こらないようにするのである。ヒヤリ・ハットしたことがあったら、それを上司に報告し、 実際の事故に発展させないようにするのである。だから、小さな事故やヒヤリ・ハットを隠さず、報告することは何より大切である。報告があってはじめて対策ができるから である。なんでも報告できる風通しの良い環境を作ることは、この意味で大変重要である。

  7. ところが何を勘違いしているのかわからないが、ミスに対して罰を与えることが少なからずある。ミスをすると罰があり大変だから、ミスをしないよう努力しなさい、という 目的だろうが、そう素直に考える人間はむしろ少ない。ミスをして報告すると罰があるから、ミスは隠しておこう、となる場合の方が多いだろう。こうなると、報告がなくなる から表面上問題がないように見えて、実際は重大事故の「縁」が影で着々と集合していてもわからない。あるとき、ドカンとくる。あるいは福知山事故の例のように、オーバー ランしたので罰(日勤教育)があるだろうと考えて、運転業務がおろそかになりブレーキ操作が遅れ、大事故を引き起こしてしまう結果になることもある。これなんかは 大事故の「縁」を自ら集起させているようなものだ。

  8. もう1点。人間はミスをするものだ、という認識を持つことが大切だと思う。ミスをしないように努力することはもちろん基本である。技術を磨いて、作業の内容などを 熟知すると未熟さゆえのミスはなくなる。作業を標準化し、チェックシートで確認しながらの作業も、ミスをなくする工夫の一つである。しかしこのような努力をいくら重ね ても、ミスは少なくできてもなくならないだろう。ここは割り切るところである。そこでフェイルセーフの考えが出てくる。列車事故防止のためのATSなんかは典型的な フェイルセーフの考えに立った対策である。社会が発展し、システムが複雑になればなるほど、この考えは重要になってくる。

  9. さらにもう1点。マニュアル化についてである。なにについてもマニュアル化が言われるが、マニュアルがあれば何でもできると、大変な勘違いをしている場合が多い。 いつか神戸空港で乗用車が滑走路に侵入した事件があった。その処置がうまくできなかったのであるが、言い訳としてそういう事態を想定したマニュアルがなかったことが 強調されていた。マニュアルがなかっても、行動の基本である事故防止や人命最優先の観点から、機転をきかせば適切な対応はできるはずである。マニュアルがないから、 という言い訳を聞いて、あきれてしまった。

  10. さらにひどい勘違いは、マニュアルさえ作ればそれでいい、と言う考えがはびこっていることである。マニュアルを見れば何でもできると思っているらしい。極端にいうと、 微妙な指先の技術を数値化してマニュアル化せよ、ということらしい。マニュアルというのは、それを用いた繰り返される教育訓練があって始めて意味を持ってくるのである。 火災対応のマニュアルでも、それを用いた訓練を繰り返すことにより、いざというときマニュアルがなくても対応できるのである。だからマニュアルは「ある」ことが重要なの ではなく、「なかっても」よくなったとき、初めてマニュアルの意味が出てくるのである。世の管理職はよくよく考えてほしい。

  11. くどいが、もう1点。私の仕事はビルの設備管理であり、設備の運転管理が主業務である。点検巡回をしていて、ある機械の状態がおかしい、あるいは監視装置の数値を 読んでいて、どうもおかしいと感じることがあるのであるが、これをおかしいと感じるか、何も感じないかは大きな「差」なのである。おかしいと感じたら対応ができる、しかし おかしいと感じなかったらそれまでである。熟練とはこういうことだろう。これも重大事故の「縁」の集起をさせない計らいである。マニュアルがあればベテランでなくても 同じことができるので、経費削減で高給取りの経験者をリストラし、契約社員で代用する。オーナーから見れば、人数は変わらないから文句は出ないだろうが、こんなことを していたらそのうちドカンとくる。世の経営者はよくよく考えてほしい。


あとがき

 書きたかったことは以上でほぼ終わりである。実はこの後、ハインリッヒの法則に続いて、般若心経の「不生不滅、不垢不浄、不増不減」と中論八不について書こうと 思っていたのであるが、今回は取りやめにした。書きたかったことは、これら「中道」といわれる項目がすべて、有見と断見の両極端をはなれて、依存関係による生起を説いて いる、という観点から説明できる、ということである。「苦楽の中道」とか、「有無の中道」とかもすべて同じ解釈で説明できる、と書きたかったのである。

 しかし、よくよく考えてみると、中道の話は悟りの世界に足を踏み込むことでもあるし、今の私にはふさわしくない、またその力量もない。ここはハインリッヒの法則の 話で切り上げるのが無難だろう、と判断した。

さて、リポートの大まかな構成は書く前にできていたのであるが、書いている途中にひらめいてきた事柄もいくらかある。「無記」が「計らい」として位置づけられること、 「無明」←「行」への疑問などである。それらも含めて、現時点での私の仏教理解のまとめとしたい。

 質問、反論、意見等は私の掲示板に書いていただいて結構であるし、私はそれらを期待している。しかし気の利いた回答は、あまり期待しないでほしい。



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